ある祭り会場の近くで、住宅系の営業担当からアンケートを頼まれた。
そこで出てきた一言が強かった。
「偽名でも匿名でもいいので、とりあえず書いてください」
いや、ちょっと待ってほしい。
名前の正確さすら要らないなら、その紙は何のために存在しているのか。
顧客名簿を作りたいわけではない。回答者本人を後から追跡したいわけでもない。もちろん匿名回答でもニーズ調査はできるので、この一言だけで「調査に意味がない」とまでは言えない。
ただ、少なくともその瞬間、紙より重要そうなものが見えてくる。
知らない人に声をかけ、止まってもらい、会話を始めること自体が成果なのでは?
そう思った瞬間、アンケート用紙が急に営業研修用のダンベルに見えてくる。
そして通行人側には、次の疑問が生まれる。
新人に社会研修をさせるために俺を使うなら、俺にもQUOカードをくれ。
市場に教育させるなら、教育費を市場に払ってほしい。
1. 「偽名でいい」で、アンケートの正体が少し透ける
普通、氏名欄がある調査で「偽名でもいい」と言われたら、回答者は混乱する。
本当に名前が不要なら、最初から氏名欄を消せばいい。
それでも「何でもいいから一枚書いてほしい」となるなら、その紙にはデータ収集以外の役割がある可能性が高い。
たとえば、
- 知らない人へ声をかける
- 最初の数秒で立ち止まってもらう
- 無視や拒否に耐える
- 会話を数十秒続ける
- 住宅の話題へ移る
- 興味がありそうなら次の接点へつなぐ
といった実戦練習だ。
ここまで来ると、アンケートは研究票というより会話を始めるための入場券になる。
そして枚数が評価指標になるなら、さらに面白い問題が発生する。
紙だけ埋めればいいなら、スターバックスに座って架空Aさんを30人生成すればよくない?
もちろん会社がそれを認めるはずはない。
なぜなら欲しいのは「30枚の紙」ではなく、30回の声かけ、30回の反応、30回の拒絶や会話だからだ。
つまりスタバ自家発電を禁止した瞬間、会社自身が答えを出している。
本当の商品はアンケート用紙ではない。新人の対人経験値である。
2. 紙を自分で書いても意味がない。だから通行人が必要になる
営業の最初の難所は、商品知識ではなく「知らない人に話しかける」ことだったりする。
座学なら、住宅ローンや物件の特徴は覚えられる。
ロールプレイなら、同僚相手に質問と返答の型も練習できる。
しかし街には、台本にない人がいる。
無視する人。急いでいる人。逆質問する人。妙に詳しい人。アンケートには答えるが営業は断る人。そして、ときどき営業の改善案まで出してくる通行人。
実戦で鍛えたい会社から見れば、この予測不能さが価値になる。
逆に通行人から見ると、ここで奇妙な非対称が生まれる。
研修生は仕事として経験値を得る。通行人は自分の時間を使って、その経験値の素材になる。
だから「新人教育なら会社の中で完結してくれ」という反発が出るのは自然だ。
3. 「それならナンパでもしてこい」は冗談としては構造を突いている
知らない人への声かけ、断られても次へ行く、短時間で反応を読む。
そこだけ切り出すと、「そんなに声かけ耐性を鍛えたいなら、趣味でナンパでもしてくればいいじゃん」という雑なツッコミが出てくる。
もちろん、これは会社の研修案として採用してはいけない。
恋愛目的の声かけと住宅営業では目的も相手も違うし、無関係な人へ会社が私的な接触を命じれば、別方向の迷惑やコンプライアンス問題を作るだけだ。
ただしジョークが刺している点は正しい。
「知らない人へ接触する怖さを克服する」という訓練コストを、なぜ偶然そこを歩いていた第三者が負担するのか。
問題は声かけ技術そのものではなく、訓練相手の同意と対価である。
4. 実際に「路上アンケート=営業研修」と公表している会社もある
この構造は想像だけではない。
オープンハウスグループは採用サイトで、内定者向けの**「源泉営業研修」**を公表している。
同社の説明では、源泉営業とは集客の起点になる営業で、担当エリアの路上でチラシ配布やアンケートを行い、興味を持った人を来店へつなぐ活動だ。内定者にもこれを経験してもらい、コミュニケーション力、対話力、提案力を育てる狙いがあるとしている。
しかも参加は任意だが、研修生には時給が支払われ、契約につながれば成果報酬もある。表彰制度もあり、全国の内定者の中で上位を目指す動機にもなっている。
別の同社社員インタビューでは、内定者研修時代に、他の参加者がアンケートを10数枚取る中、自分は20〜30枚取ったというエピソードが「母数への執着」の例として語られている。
ここから言えるのは単純だ。
少なくともこの会社では、街頭アンケートはただの市場調査ではなく、営業活動であり、同時に人材育成の場でもある。
なお、祭り会場付近での前述の体験がこの会社だったと断定する材料はない。個別体験と企業の公式研修制度は分けて考える。
5. 研修生には時給が出る。では通行人の時給は?
ここで一番面白い会計が始まる。
会社は研修担当者を置く。
研修生には時給を払う。
成果が出ればインセンティブを払う場合もある。
ところが、実戦相手となる通行人は無料で供給される。
通行人が提供しているのは、回答だけではない。
- 立ち止まる時間
- 説明を聞く注意力
- 質問へ答える労力
- 営業へ切り替わったときに判断する労力
- 要らない場合に断る労力
- 新人が失敗しても受け止める社会的クッション
経済学の難しい言葉を使わなくても、構造は分かる。
会社の教育に必要な一部のコストが、会社の外にいる人へ薄く配られている。
一人あたり数分なら小さい。
だが「数分くらい無料でいいだろ」を大量の通行人から集めれば、それ自体が研修資源になる。
だからこちらも価格表を出したくなる。
アンケート回答:QUOカード500円。
営業改善提案までした場合:1,000円。
法的にこの金額を払う義務がある、という話ではない。日本マーケティング・リサーチ協会も、調査謝礼として現金や品物が出る場合はある一方、簡単なアンケートでは謝礼がない場合もあると説明している。
これはあくまで、研修価値まで取るなら少しくらい市場へ返してくれ、という通行人側の料金表である。
6. 祭りの外で捕まえた通行人に、営業戦略まで相談するな
ある祭り会場の近くでアンケート営業に捕まったとき、周囲には家族連れが大量にいた。
そこで単純な疑問が出た。
「住宅を売りたいなら、祭りの中に家族連れが山ほどいるんだから、そっちへ飛び込み営業した方がよくない?」
返ってきたのは、人が多い場所ではやりにくい、という趣旨の反応だった。
ここで役割が壊れる。
最初はただの通行人だった。
次にアンケート回答者になった。
その後、新人の会話練習相手になった。
最後には、営業場所の改善案まで出している。
通行人 → 回答者 → 研修教材 → 無料営業コンサルタント。
昇進が速すぎる。
しかも給与はゼロである。
せめて最後に「本日は営業戦略会議へのご参加ありがとうございました」とQUOカードを渡してほしい。
7. 家を1軒くれるなら、1000人でも研修していい
結局、これは「他人に話しかけられるのが絶対に嫌」という話でもない。
対価次第である。
もし会社が「研修に1000人付き合ってください。その代わり家を1軒差し上げます」と言うなら、態度は一変する。
どうぞ。今日中に全員連れてきてください。
朝9時。
研修生A「住宅についてアンケートを――」
回答者「はい。次。」
昼12時。
研修生238人目「現在のお住まいは――」
回答者「今回は『賃貸・戸建て検討中』設定でいこう。次。」
夜8時。
研修担当「本日はここまでです」
回答者「あと642人残ってるだろ。家をもらうんだからやるぞ。」
完全に営業研修用NPCである。
つまり不快感の一部は「声をかけられたこと」だけではない。
会社側だけが明確な利益を得るのに、相手側の時間が当然の無料資源として扱われることにある。
家まで出せとは言わない。
だからQUOカードという話になる。
8. なぜ「普通のアンケート」よりキャッチっぽく感じるのか
市場調査と営業では、回答者が同意していることが違う。
「調査に協力してください」と言われて立ち止まった人は、普通は質問に答えることへ同意している。
そこから突然、購入の見込み客として扱われ始めると、「入口で聞いていた話と違う」と感じやすい。
日本マーケティング・リサーチ協会は、協会員の調査について、調査を装った販売・勧誘は行わないと案内し、調査と販売促進を区別する考え方を示している。
不動産勧誘については、国土交通省が、契約の勧誘に先立って宅地建物取引業者の名称、勧誘する人の氏名、勧誘目的であることを告げずに勧誘する行為や、相手が契約しない・勧誘を受けたくない意思を示した後も勧誘を続ける行為などを禁止事項として案内している。
ただし、路上でアンケートを頼む行為それ自体が全国一律で違法という意味ではない。個別行為が法令上どう評価されるかは、実際に何を告げ、いつ契約勧誘へ移り、断った後どうしたかなど具体的事情で変わる。
重要なのはもっと単純なところだ。
最初から「住宅営業の一環です」と分かっていれば、通行人は止まるかどうかを自分で選べる。
「1分アンケート」だと思って止まった後に営業の第二形態が始まると、時間よりも善意を釣り餌にされた感覚が残る。
9. 研修をするなら、通行人を無料NPCにしない設計はできる
路上営業を全部やめなければ、新人が育たないわけではない。
たとえば、かなり改善できる。
- 最初に目的を言う。 「住宅会社の営業研修を兼ねたアンケートです」と入口を正直にする。
- 時間を固定する。 「2分で終了。希望がなければ営業説明へ移りません」と約束する。
- 拒否を一発で受け入れる。 断る練習も営業研修の一部にする。
- 有償モニターを使う。 ロールプレイ、模擬客、調査パネルなど、最初から訓練相手として同意した人を混ぜる。
- 街頭で価値を取るなら小さく返す。 データ、会話、研修価値まで得るなら、飲み物、クーポン、QUOカードなどの小さな謝礼を検討する。
こうすれば、通行人は「知らないうちに研修教材にされた」ではなく、条件を見て参加した協力者になる。
同じ2分でも体験はかなり違う。
10. 結論――市場に教育させるなら、教育費を市場に払え
路上アンケートが面白いのは、一枚の紙の向こうに会社の人材育成まで見える瞬間があることだ。
「偽名でもいいから書いてください」と言われたとき、疑問は自然に生まれる。
そこまで本人確認が要らないなら、本当に欲しいのは紙なのか。会話の経験値なのか。
実際、オープンハウスグループのように、街頭アンケートを営業の入口かつ内定者研修として公式に位置づけている会社もある。
それ自体には企業側の合理性がある。新人は実戦でしか学べない反応を経験でき、会社は将来の営業力を作れる。
ただし、その実戦には必ず相手役がいる。
その相手役は、たまたま道を歩いていた人である。
だから通行人側からの最終回答はこれでいい。
市場に教育させるなら、教育費を市場に払え。
せめてQUOカードをくれ。
営業改善案まで出したら増額で。
そしてもし家を1軒くれるなら話は別だ。
1000人まとめて連れてこい。こっちは研修用NPCとして本気を出す。
