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2026年9月30日時点。SNSで「20代で年収600万円は高いのか」が盛り上がると、だいたい二つの世界が衝突する。「600万円なんて周りに普通にいる」世界と、「20代で600万円はかなり少数派」世界だ。面白いのは、両方とも本人の観測範囲では本当になり得ること。問題は、そこから日本全国まで一気に話を広げる瞬間に母集団が爆発することである。
SNSでありがちな年収論争がある。
「20代で600万円はかなり高い」
すると別の人が出てくる。
「え、大学の友達を30人集めても600万円以下なんてほとんどいないけど?」
はい、母集団ガチャ開幕。
友達30人は日本人30人ではない。
同じ大学、似た学歴、似た就活、似た業界、似た会社規模。人間関係はランダム抽選ではなく、かなり強く固まる。
その村で600万円が普通でも、全国で普通とは限らない。
逆に、低賃金の職場や地域にいる人が「600万円なんて都市伝説」と感じても、それも全国そのものではない。
年収600万円は、箱を開けるまで「普通」にも「高給」にもなる。
シュレディンガーの普通である。
1. 600万円は高い?の前に、誰の中で?を決めろ
国税庁の2025年分「民間給与実態統計調査」では、1年を通じて勤務した民間給与所得者5,163万人の平均給与は487万円だった。
男女別では男性597万円、女性342万円。
そして給与階級を合計すると、年収600万円超の人は全体の25.9%だった。つまり、全年齢・男女込みの民間給与所得者という母集団なら、600万円超はざっくり上位4分の1である。
「600万円は上位2割」という言い方は少し強い。700万円超まで上げると18.1%なので、こちらが「上位2割」に近い。
なお、統計表の区切りは「500万円超600万円以下」「600万円超700万円以下」なので、25.9%は厳密には「600万円超」だ。600万円ぴったりの人を巡って統計学者が殴り合う必要はないが、数字を書くなら境界は合わせたい。
さらに男女で景色が変わる。600万円超は男性で約37.3%、女性で約10.5%。
同じ「600万円」でも、母集団を変えるだけで珍しさが大きく変わる。
年収論争の第一ボタンは金額ではない。
分母である。
2. 20代の話に、全年齢の「上位4分の1」をそのまま貼るな
今回の論点が「20代で600万円」なら、全年齢の25.9%をそのまま持ってくるのも間違いである。
国税庁の2025年データでは、平均給与は20~24歳で280万円、25~29歳で425万円。25~29歳の男性は460万円、女性は383万円だった。
つまり600万円は、少なくとも20代後半の平均よりかなり上にある。
ただし、ここから「20代で600万円なら上位○%」と即断してはいけない。平均値だけでは分位点は出ない。
20代の正確な比率を知りたいなら、総務省「就業構造基本調査」のような年齢×所得階級のクロス表を使う必要がある。2022年表10200には20~24歳、25~29歳と、600~699万円、700~799万円などを交差させられる項目が用意されている。
ここで重要なのは数字を無理に作らないことだ。
「全年齢で600万円超は25.9%」は分かる。
「25~29歳の平均は425万円」も分かる。
しかし、それだけで「20代600万円は上位7%」などと勝手に生やしてはいけない。
統計は、分からないところに数字を生やすゲームではない。
3. 企業ガチャは実在する。ただし「全部会社のせい」とも言えない
「同じような人でも、入った会社で給与の景色が変わる」という感覚には、かなり根拠がある。
厚生労働省の2025年「賃金構造基本統計調査」で25~29歳の月例賃金を見ると、大企業は30.17万円、中企業は27.06万円、小企業は25.82万円だった。ここで大企業は常用労働者1,000人以上、中企業100~999人、小企業10~99人である。
大企業と小企業の差は、この年齢でも約17%ある。
国税庁の企業規模別集計でも、資本金2,000万円未満の株式会社の平均給与は416万円、資本金10億円以上では692万円だった。
業種差も激しい。2025年の平均給与は電気・ガス・熱供給・水道業が854万円、金融・保険業が726万円、宿泊・飲食サービス業が276万円だった。
さらに正社員の平均給与559万円に対し、正社員以外は210万円。
ただし、これは「同じ能力・同じ職種・同じ労働時間の人を会社だけ入れ替えた実験」ではない。年齢、職種、学歴、勤務時間、地域、企業の採用選抜などが全部違う。
だから、
「会社で差が出る」→かなり事実。
「差は全部会社ガチャのせい」→そこまでは言えない。
この二つを同時に持っておく必要がある。
RIETIの研究では、1995~2013年の男性フルタイム労働者について、賃金格差の拡大を企業間格差の拡大が大きく説明し、企業内格差はおおむね横ばいだったと報告されている。
対象期間も対象者も限定された歴史的研究なので、2026年の全労働者へそのまま移植はできない。それでも「どの企業側にいるか」が賃金分布と無関係ではないことを示す材料にはなる。
企業ガチャは幻ではない。
ただしSSRを引いた人が「全員SSRだろ?」と言い始めると統計が泣く。
4. 「友達30人みんな600万円」は、嘘でなくても全国推論には使えない
ここがSNS年収論争のいちばん面白いところだ。
「友達30人のほとんどが600万円以上」
これは本当かもしれない。
でも、本当であることと、日本全国を代表することは別問題である。
大学の友人はランダムサンプルではない。
難関大学なら学力や家庭背景が似る。
就活情報を共有すれば応募先も似る。
都市部に残れば地域も似る。
金融、IT、コンサル、大手メーカーなど高賃金業界へ固まれば、給与帯も似る。
さらに友達は友達を呼ぶ。
その結果、「自分の半径50メートルでは600万円が普通」という世界は普通に作れる。
これは観察としては正しい。
ただし、
「私の周りでは普通」 ↓ 「だから日本でも普通」
ここでサンプルが瞬間移動する。
SSR企業村の村内平均を、日本国平均として提出してはいけない。
逆も同じだ。
低賃金の職場しか見ていない人が「600万円なんて一部の天才だけ」と言っても、やはり局所サンプルである。
人間の体感は、自分が住んでいるクラスタの実況中継であって、国勢調査ではない。
5. 「周りの体感が偏る」と「本当の格差がない」は全然違う
ここは混同しやすい。
「友達30人は偏ったサンプルだ」と言うと、
「じゃあ格差なんて錯覚なの?」
とはならない。
偏った観測と、本物の格差は同時に存在できる。
大企業の正社員同士で暮らしていれば、自分の周りに低賃金労働者がほとんど見えないことがある。
しかし同じ建物、同じ工場、同じ街にいても、雇用主、契約形態、職種、勤務時間が違えば待遇は大きく変わり得る。
ただし他人の労働契約書は見えない。
給与明細も見えない。
賞与も退職金も福利厚生も、残業時間も、家賃補助も、持株制度も見えない。
だから街ですれ違っても「この人はいくらで働いているか」はほぼ分からない。
格差があるのに、日常生活では格差の数値が見えない。
これが体感をさらにズラす。
「見えない」ことと「存在しない」ことは別である。
6. じゃあ全員の給料を公開すれば幸せか? そう簡単でもない
ここから話が少し嫌な方向へ行く。
他人の給与を知れば、市場の現実が見える。
でも、幸福になるとは限らない。
Card、Mas、Moretti、Saezによる2012年の実験では、カリフォルニア大学の一部職員に同僚の給与を検索できるウェブサイトの存在を知らせた。
すると、自分の給与が所属単位・職種の中央値より低い人では、給与満足度と仕事満足度が下がり、転職を考える傾向が強まった。
一方、中央値より高い人には、同じくらい大きなプラス効果は見られなかった。
つまり、
「あいつより低い」→効く。
「あいつより高い」→同じ強さでは効かない。
人間、比較ゲームの配当が渋い。
自分の生活に特に不満がなかったのに、友達の年収を聞いた瞬間だけ急に損した気分になる。
財布の中身は1円も減っていない。
なのに幸福度だけ減る。
CPU使用率ゼロで気分だけ削る、非常に高性能な機能である。
もちろんこの研究は特定の職場文脈の実験で、全員・全社会に同じ効果を保証するものではない。それでも「給与透明性には心理的副作用もある」という重要な証拠だ。
7. でも「何も知らない」も危ない。人の給料ではなく市場を見ろ
では他人の給料なんて一切知らない方がいいのか。
それも極端である。
Zoë Cullenによる2024年の給与透明性レビューは、透明性を一種類として扱わない。
同じ会社の同僚同士で給与が見える「水平的な透明性」と、他社の給与水準が分かる「企業間の透明性」では作用が違う。
他社の相場が見えれば、より高い賃金の企業を探したり、交渉したり、企業間の賃金競争を促したりできる。
つまり欲しい情報は、
「友達Aが713万円、同期Bが648万円」
ではなく、
「自分の職種・経験・地域・労働時間なら、市場レンジはいくらか」
である。
これはかなり違う。
前者は人間ランキングになりやすい。
後者は意思決定データになる。
比較するなら人ではなく市場。
これがいちばん事故が少ない。
8. 年収を見るなら、金額1個ではなく「契約パッケージ」で見た方がいい
さらに、年収600万円という数字だけで待遇を全部語るのも危険だ。
同じ600万円でも、
残業が月40時間か5時間か。
転勤があるか。
住宅補助があるか。
賞与の変動が大きいか。
退職金があるか。
有給を取りやすいか。
リモートできるか。
仕事の負荷が高いか。
雇用が安定しているか。
通勤が10分か90分か。
全部違う。
年収だけをランキングすると、「700万円だけど毎日が消耗戦」と「600万円で時間と自由がかなりある」を同じ物差しで殴ることになる。
市場を見るときも、年収だけではなく総報酬、労働時間、福利厚生、勤務地、安定性、裁量まで見る。
給与情報の目的は他人に勝つことではない。
自分の契約が、自分の欲しい生活に対して妥当か判断することである。
9. 結論:年収600万円は「シュレディンガーの普通」。箱の名前を先に書け
年収600万円は高いのか。
答えは「母集団を書け」である。
全年齢の民間給与所得者なら、600万円超は約25.9%で、ざっくり上位4分の1。
20代の話なら、全年齢の順位をそのまま使ってはいけない。25~29歳の平均給与は425万円なので600万円は平均よりかなり上だが、正確な上位比率には年齢×所得階級のクロス集計が必要だ。
さらに大企業、高賃金業界、特定大学、都市部などのクラスタでは、600万円が「周りでは普通」になることも十分ある。
その観測は嘘ではない。
ただし全国推計でもない。
そして、社会の格差を理解するために他人の給与明細を全部見る必要もない。
個人の幸福を守りながら労働市場で損をしにくくするなら、
人との比較は必要最小限、市場との比較はちゃんとする。
これくらいがちょうどいい。
友達30人の給与を集めて日本経済を推定する必要はない。
それは統計調査ではなく、飲み会である。
参考資料(2026年9月30日確認)
- 国税庁「令和7年分 民間給与実態統計調査」 https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan/gaiyou/2025.htm
- 国税庁「令和7年分 民間給与実態統計調査 調査結果報告書」 https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan2025/pdf/2025_001.pdf
- 厚生労働省「令和7年 賃金構造基本統計調査」 https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou_a.html
- e-Stat「令和4年就業構造基本調査 表10200」 https://www.e-stat.go.jp/index.php/stat-search/database?statdisp_id=0004008241
- RIETI, Rise in Wage Inequality between Firms: Evidence from Japan 1995-2013 https://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/24030002.html
- Card, Mas, Moretti & Saez, Inequality at Work: The Effect of Peer Salaries on Job Satisfaction https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/aer.102.6.2981
- Zoë Cullen, Is Pay Transparency Good? https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/jep.38.1.153
