SNSで、こんな趣旨の投稿が大きく拡散した。
「日本人は年収250万円以下が半分以上」
添えられていたのは、「50万円未満 30.4%」「200万~250万円 4.7%」などが並び、250万円付近までを合計すると51.3%になる表だ。数字だけを見ると、かなり強い。
しかも厄介なのは、数字そのものはほぼ本物だということだ。
偽造グラフではない。厚生労働省の「令和5年 所得再分配調査報告書」に載っている数字と一致する。[1]
問題は、数字ではなくラベルが旅に出ていることだった。
「世帯」が「日本人」になり、「当初所得」が「年収」になり、そして公的年金が画角の外へ消えている。
これは統計の捏造というより、情報の物撮りに近い。
机の上に本物の商品を置く。
邪魔なものを右へどける。
照明を当てる。
都合のいい角度にする。
最後に「悲報」の札を置く。
パシャ。
数字は本物。写真も無加工。
ただし、部屋全体は映っていない。
0. 5秒で結論
この表から 「働いている日本人の半分以上が年収250万円以下」 とは言えない。
理由は5つある。
- 対象は個人ではなく世帯。
- 指標は一般的な意味の給与年収ではなく、社会保障による再分配前の当初所得。
- 公的年金・恩給は当初所得に入らず、社会保障給付として別枠。
- 調査世帯は高齢化の影響が非常に大きく、世帯主65歳以上が56.7%。
- 表の51.3%は当初所得250万円付近までの累積だが、**再分配所得では同じ範囲が29.5%**になる。[1]
なお、再分配所得には医療・介護などの現物給付も含むので、29.5%を「手取り年収」と読むのも間違いだ。
要するに、これは「日本人の給料ランキング」ではない。
社会保障を入れる前と後で、世帯の所得分布がどう変わるかを見るための統計である。
1. まず51.3%という数字は本物
ここは雑に否定しないほうがいい。
厚生労働省の第1表では、当初所得の世帯分布はこうなっている。[1]
- 50万円未満:30.4%
- 50万~100万円:5.8%
- 100万~150万円:5.6%
- 150万~200万円:4.8%
- 200万~250万円:4.7%
累積すると51.3%。
だから「51.3%は捏造だ!」ではない。
51.3%は本物。そこにつけた字幕が別番組。
ここを間違えると、ファクトチェック側まで雑になる。
2. 一番大きい変換は「世帯」→「日本人」
元の表は世帯分布だ。
3,003世帯を集計して、各世帯の所得がどの階級に入るかを見ている。[1]
ところがSNS上では、それがしばしば、
「日本人の半分」
に変換される。
これは単位が違う。
夫婦2人で暮らす1世帯も、1人暮らしの高齢者も、親子4人の世帯も、それぞれ「1世帯」だ。人数の比率ではない。
さらに「年収」という言葉から、多くの人が想像するのは会社員の給与年収だろう。
しかしこの表の見出しは当初所得である。
厚生労働省の定義では、当初所得は雇用者所得、事業所得、農畜産所得、財産所得、家内労働所得、雑収入、仕送りや企業年金などの私的給付を合わせたものだ。[1]
つまり給与だけでもない。
そして、もっと重要なものが入っていない。
3. 公的年金は「当初所得」の外にいる
厚生労働省は、受給する社会保障給付を年金、医療、介護、その他として別に扱っている。[1]
当初所得に社会保障の現金給付を足すと「総所得」。そこから税・社会保険料を引くと「可処分所得」。さらに医療や介護などの現物給付まで加味すると「再分配所得」になる。[1]
つまり、公的年金だけで生活する退職世帯を考えると分かりやすい。
たとえば、
- 給与:0円
- 事業所得:0円
- 公的年金:年200万円
という世帯があったとする。
ほかに当初所得へ入る収入がなければ、公的年金200万円を受け取っていても、当初所得はほぼ0円側に置かれる。
「年200万円で生活している世帯」が、当初所得の表だけを見ると「50万円未満」に見えることがある。
この統計では、それはバグではない。
社会保障でどれだけ所得分布が動くかを見るための仕様である。
なお、企業年金などの私的給付は当初所得に含まれる。何でもかんでも「年金は全部除外」ではない。ここも雑にすると第二次ミスリードが始まる。
4. しかも調査世帯は高齢化の影響が大きい
厚生労働省自身が、今回調査では**世帯主65歳以上の世帯が56.7%**だったと書いている。前回は55.2%で、高齢化が当初所得のジニ係数上昇にも影響したと分析している。[1]
さらに「高齢者世帯」は3,003世帯中1,232世帯。約41%だ。[1]
この高齢者世帯の平均を見ると、構造がもっと分かりやすい。
- 平均当初所得:107.8万円
- 年金・恩給:193.8万円
- 平均可処分所得:263.7万円
- 平均再分配所得:338.4万円[1]
「当初所得107.8万円」という数字だけ切れば、かなり悲惨に見える。
しかし同じ表の横には、平均193.8万円の年金・恩給がいる。
年金「ここにいます」
切り抜き「今日は写らないでください」
という構図である。
もちろん、高齢者の生活が楽だと言っているわけではない。資産、住居費、医療費、世帯人数などで実生活は大きく違う。
言っているのはただ一つ。
この表だけで現役労働者の給与水準を語るのは、測っているものが違う。
5. 30.4%は、再分配後だと1.2%になる
この統計の目的は、そもそも「再分配でどう変わるか」を見ることだ。
だから厚生労働省は同じ第1表で、当初所得と再分配所得を並べている。[1]
50万円未満の世帯は、
当初所得:30.4%
→ 再分配所得:1.2%
250万円付近までの累積は、
当初所得:51.3%
→ 再分配所得:29.5%
まで変わる。[1]
30.4%が1.2%。
この差を見ずに30.4%だけ持っていくのは、映画で言えば開始10分の絶望シーンだけ切って、
「主人公、完全敗北」
でレビューを終えるようなものだ。
まだ社会保障パートが始まっていない。
ただし繰り返すが、再分配所得には医療・介護・保育などの現物給付が入る。だから338万円の再分配所得がそのまま銀行口座に338万円振り込まれるという意味ではない。
ここで必要なのは「どちらが本当の年収か」を決めることではなく、
何を測った数字なのかをラベルごと読むことだ。
6. 学生が多いから?は一部あり得るが、本丸ではない
学生についてはゼロではない。
調査対象は一般世帯なので、独立して暮らす学生世帯が対象になる可能性はある。一方、厚生労働省の定義では「遊学中の者」は元の世帯の世帯員から除かれる。また、住み込み・まかない付きの寮や寄宿舎に住む単独世帯などは調査対象から除外される。[1]
したがって、
「低所得側は全部学生だ」
も違う。
この表の低い側が厚くなる大きな構造要因として、一次資料が明示しているのは高齢化と社会保障の扱いだ。
特に、世帯主65歳以上56.7%と、公的年金が当初所得に入らないという2点は無視できない。[1]
学生は脇役としてはいる。
でもステージ中央には、かなり大きな年金世帯が立っている。
7. さらに面白いのは、元記事が表の直前に説明していたこと
この表を掲載したダイヤモンド・オンラインの記事は2026年1月8日公開で、表の直前に重要な説明を書いている。[3]
記事は、当初所得が前回より下がった理由として高齢化を挙げ、この調査の所得には公的年金が入らないため、年金だけに依存する世帯では再分配前の所得がゼロになり得るという趣旨を説明している。[3]
そのあとに51.3%の表が来る。
ここが非常に重要だ。
元記事にも「半数の世帯が所得250万円以下」という強い見出し・表現はある。しかし、それは「働く日本人の半分の給与が250万円以下」という話として置かれているのではない。
高齢化で労働市場から離れる世帯が増え、再分配前の所得分布がどう見えるかという話の中に置かれている。[3]
したがって、SNSで表だけを「日本人の年収」に変換すると、元記事にあった一番大事な取扱説明書が消える。
箱は本物。
中身も本物。
説明書だけ捨ててからレビューしている。
8. これが「情報の物撮り」である
ここで、投稿者が本当に元記事を読んだのか、画像だけ別の場所から拾ったのかは外部から確認できない。
だから、
「年金除外を知りながら故意に隠した」
とは断定できない。
ただ、受け手から見える最終成果物を「物撮り」にたとえると、こうなる。
- 本物の統計表を中央に置く。
- 「世帯」という単位はキャプションで「日本人」に置き換える。
- 「当初所得」という専門ラベルは「年収」に置き換える。
- 公的年金が別枠だという説明を画角から外す。
- 所得の対象年が2022年だという情報も背景へ下げる。
- 最後に「悲報」を置く。
- 撮影。
完成。
「日本人の半分が年収250万円以下」
元データを1個も改ざんしていないのに、受け手の頭に入る意味は大きく変わる。
これが面白くて怖いところだ。
統計ミスリードは、数字を偽造しなくても作れる。
主語、単位、定義、期間、前後関係を少しずつ画角の外へ出せばいい。
9. AIのハルシネーションよりタチが悪いのか
OpenAIは、AIのハルシネーションを、言語モデルが生成するもっともらしいが正しくない発言として説明している。[4]
人間の情報発信では、さらに「意図」の問題がある。
UNESCOなどでは一般に、
- 誤った情報を、欺く意図なく共有する:misinformation
- 誤った、または誤解を招く情報を、欺く意図をもって広げる:disinformation
という区別が使われる。[5]
今回、どちらだったかは分からない。
考えられるのは少なくとも2通りだ。
A. 元記事をちゃんと読んでいなかった
その場合は、何の統計か理解しないまま大きく拡散したことになる。
B. 元記事を読んでいた
その場合は、表の直前にある年金の説明を見た可能性が出てくる。
ただし、Bだったから故意に隠したとまでは言えない。読んでも理解していなかった、忘れた、表だけ保存した、という可能性もある。
外から確定できるのは「投稿の字幕と元統計の意味がズレている」ことまでだ。
だから倫理評価は、意図の証拠なしに盛らないほうがいい。
しかし情報品質の評価なら簡単だ。
確認していないなら雑。
確認していて意味を変えたなら、もっと問題。
AIなら「分からないときは分からないと言え」と要求される。
人間にも同じガードレールを付けたい。
10. バズる統計を見たときの5秒チェック
難しい統計学はいらない。
次の6個だけ見る。
1. 主語は誰か
個人か、世帯か、企業か、回答者か。
2. 単位は何か
人数か、世帯数か、割合か、平均か、中央値か。
3. その言葉の定義は何か
「所得」「年収」「可処分所得」「当初所得」は同じではない。
4. 何が入っていて、何が入っていないか
今回なら公的年金が決定打だった。
5. いつのデータか
令和5年調査だが、所得について調べた対象期間は2022年1月1日~12月31日。[1]
6. 表の前後に何が書いてあるか
今回、最大級の注意書きは表の直前にあった。[3]
数字そのものを疑うより先に、
数字の名札を確認する。
これだけでかなり事故が減る。
11. 本当に面白い「日本の現実」は別のところにある
この統計自体はめちゃくちゃ面白い。
世帯主65歳以上が56.7%。高齢者世帯の平均当初所得は107.8万円。しかし年金・恩給や医療・介護などの社会保障を含めると、分布は大きく動く。[1]
これは、
「日本人の半分が低賃金労働者になった」
という話ではなく、
「高齢化した社会では、労働市場から得る所得だけを先に見ると分布が極端に見え、社会保障を入れると景色が大きく変わる」
という話だ。
むしろこちらのほうが、日本の制度と人口構造を考える材料としてはずっと濃い。
なのにSNSへ持っていくと、
年金を右へ。
世帯を左へ。
2022年を奥へ。
「当初所得」は棚の下へ。
よし。
51.3%だけ中央。
パシャ。
「悲報、日本人――」
情報は、嘘をつかなくてもミスリードできる。
数字が本物かどうかだけでは足りない。
その数字が、何という名前で、誰を数え、何を除外して作られたのかまでがデータである。
