『ふれる。』型の青春映画が合わない時
※この記事は映画『ふれる。』の具体的な展開に少し触れます。大きな結末の詳細には踏み込みませんが、軽いネタバレが苦手な人は注意してください。
『ふれる。』のような作品には、かなり分かりやすい型がある。
普通の日常。
幼なじみ。
友情。
共同生活。
そこに、不思議な生き物や超能力がひとつだけ入る。
『ふれる。』の場合は、不思議な生き物「ふれる」の力によって、お互いの身体に触れ合えば心の声が聴こえる、という設定だ。
この設定自体は分かる。
ただの友情映画だと地味になりやすい。
でも「心の声が聴こえる」という超常設定をひとつ入れれば、友情・本音・言葉にすること・すれ違いが一気に見えやすくなる。
つまり、日常に超常設定を1個だけ入れて、人生の学びを抽出する映画だ。
もちろん、それが刺さる人はいる。
泣ける人もいる。
青春ものとして受け取れる人もいる。
でも、見る側によっては、途中で設計図が見えすぎて冷めることがある。
「この映画は今から、この学びを取りに行くんですね」
と分かってしまう。
その瞬間、物語というより、学び抽出装置に見えてしまう。
公式の狙いはかなり分かりやすい
『ふれる。』公式サイトでは、本作は不思議な生き物「ふれる」と暮らす青年三人の友情物語として紹介されている。三人は「ふれる」のテレパシーにも似た力によって結びついていて、身体に触れ合えば心の声が聴こえるという秘密を持っている。
さらに監督コメントでは、長く一緒にいると相手を分かった気になって発言してしまうことがあるが、ちゃんと相手に直接気持ちを伝えてみようと感じてもらえる作品になれば、という意図も語られている。
つまり、作品がやりたいことはかなり明確だ。
心が読めるからつながっていた関係。
でも、それは本当に分かり合っていると言えるのか。
心が読めなくなった時、言葉にすることが必要になる。
長く一緒にいるからこそ、相手を分かったつもりになってはいけない。
このテーマは分かる。
分かる。
ただ、分かりすぎると、逆に冷めることがある。
三段階シナリオが見える
こういう映画は、だいたい三段階で進む。
1. 心が見えることで成立している関係
最初に、心が読めるから仲良くいられる関係を見せる。
言葉にしなくても分かる。
本音が聴こえる。
三人だけの秘密がある。
普通の友達より深くつながっているように見える。
ここで「心が読める友情」の便利さを見せる。
2. 心が見えない時の最悪失敗パターン
次に、心が見えない、または心が読めない状況で失敗する場面を置く。
誤解する。
距離感を間違える。
相手の気持ちを確認しない。
勝手に分かった気になる。
相手の本音や嫌を雑に扱う。
ここで、「心が見えないと人はこんなにすれ違う」というパターンを見せる。
3. 最後に、心が見えなくても言葉と距離感で関係を作る
そして最後に、心が見えるかどうかではなく、ちゃんと言葉にすること、相手の距離感を尊重することが大事だと戻ってくる。
見えなくても伝える。
分かった気にならず聞く。
相手の嫌を尊重する。
すれ違っても戻る。
こうして、作品は「心を読めることより、言葉にすることが大事」という学びへ向かう。
構造としては理解できる。
でも、見る側がその三段階を早い段階で読んでしまうと、かなりきつい。
「ああ、今は心が見えない失敗パターンを置いてるんですね」
と思ってしまう。
「その導線には付き合わん」となる瞬間
作品側の意図は分かる。
心が見えない状態の最悪失敗パターンをまず渡す。
その後で、心が見える状態の関係を見せる。
さらに最後に、心が見えなくても言葉と距離感で関係を続けるところへ戻す。
たぶん、そういう三段階シナリオなのだと思う。
ただ、それが見えたからといって、最後まで付き合えるとは限らない。
「ああ、今この失敗を見せて、あとで回収するんだろうな」
「ここで喧嘩して、また仲良くなって、最後に大きな問題が来て、超常の力でハッピーエンド方向に戻すんだろうな」
と先に見えてしまう。
そうなると、こちらの感情が動く前に、脚本の役割が見える。
キャラクターが失敗しているのではなく、
失敗パターンを見せるために配置されている
ように見えてしまう。
ここで冷める。
作品側は、観客に人生の学びを持って帰ってほしいのだと思う。
でも、見ている側が先に答えを出していると、
その導線には付き合わん
となる。
「はいはい、知ってます」問題
こういう映画で起きやすいのが、「はいはい、知ってます」問題だ。
心が読めても、言葉にしないとダメ。
長く一緒にいても、相手を分かった気になってはいけない。
本音が見えなくても、ちゃんと確認する必要がある。
友情は、心の中を全部見せることではない。
相手の嫌や距離感を尊重することが大事。
全部その通りだ。
でも、見ている側によっては、
「それは知ってます」
になってしまう。
特に、普段から人の目線・声色・表情・行動・NOへの反応を見ている人ほど、結論が早めに見える。
本音は超能力がなくてもある程度漏れる。
嫌なら嫌そうにする。
疲れていれば声に出る。
興味がなければ反応が薄くなる。
境界線を守れる人かどうかは、こちらが軽くNOを出した時の反応で分かる。
だから、心が見える/見えないの前に、
「見えているサインを雑に扱わないことの方が大事では?」
と思ってしまう。
サプライズキス文化の亡霊
特に引っかかるのが、距離感や同意の扱いが雑に見える場面だ。
たとえば、キスしたことをサプライズやお祝いのように周囲が回収するような流れがあるとする。
付き合った記念のケーキを用意する。
これは分かる。
でも、キスそのものをサプライズや友情イベントとして回収するような見せ方になると、一気に引っかかる。
キスは、相手の身体・距離感・同意が絡む出来事だ。
それを「サプライズ」っぽく処理すると、
同意UI未実装では?
と思ってしまう。
しかも、心の声や本音、友情、距離感を扱う作品でそれをやると、かなり目立つ。
心が見えない時の失敗パターンとして置いているのかもしれない。
あとで「距離感を間違えた」と回収するための布石なのかもしれない。
それは分かる。
でも、その導線を理解した上でなお、
「いや、雑だな」
と思うことはある。
これは、サプライズキス文化の亡霊だ。
ロマンチック演出として置いたつもりでも、現代目線では境界線イベントに見える。
作品が自分のテーマを踏み抜いた瞬間
この手の映画で一番冷めるのは、作品が自分のテーマを踏み抜いているように見える時だ。
テーマは、心の声。
本音。
言葉にすること。
相手を分かった気にならないこと。
距離感。
友情。
なのに、同意や距離感の扱いが雑に見える場面がある。
そうすると、
「いや、この作品が一番、相手の距離感を雑に扱ってないか?」
となる。
もちろん、脚本上はそれを失敗として描いているのかもしれない。
あえて最悪の失敗パターンを先に見せているのかもしれない。
でも、視聴者側がそこまで付き合う前に冷めることもある。
なぜなら、テーマが見えているからだ。
見えた情報を雑に扱うな。
相手の嫌を尊重しろ。
心が読めないなら、なおさら言葉と同意を大事にしろ。
そう思った直後に、距離感ザルなシーンが来ると、
はいはい
となる。
作品の意図より先に、作品の設計図と弱点が見えてしまう。
情緒のチュートリアルとしては成立する
ただし、これは作品が無意味という話ではない。
こういう映画は、情緒のチュートリアルとしては成立する。
心が読めるって便利そう。
でも、それだけでは友情は続かない。
相手を分かったつもりになるのは危ない。
言葉にすることが大事。
相手の嫌や距離感を尊重することが大事。
こういうことを、物語を通して体験する人もいる。
特に、言葉にするのが苦手な人、長い関係で相手を分かった気になっている人、友情や恋愛で距離感を間違えた経験がある人には刺さる可能性がある。
映画は、正しいことだけを言えばいいわけではない。
その人にとって、ちょうど必要なタイミングで届くこともある。
だから、『ふれる。』型の作品が刺さる人はいる。
それは分かる。
ただ、すでにその答えが見えている人には、チュートリアル感が強く出る。
合わない理由は、冷たいからではない
こういう映画が合わないからといって、冷たいわけではない。
友情に興味がないわけでもない。
人間関係を軽く見ているわけでもない。
感情を否定しているわけでもない。
むしろ逆の場合もある。
普段から人の状態を見ている。
本音はノンバーバルに出ることを知っている。
相手のNOを尊重することが大事だと分かっている。
見えた情報を雑に使う危険も分かっている。
だから、作品の学び導線が早く見えてしまう。
つまり、冷める理由は「情緒がない」ではない。
情緒の要件定義が先に見えてしまうことだ。
このシーンは失敗パターン。
これは喧嘩の前振り。
これは後で仲直りするためのズレ。
これは最後に言葉にする大切さへ戻す導線。
これは超常設定を使った人生の学び抽出。
そう見えてしまう。
それはそれで、ひとつの視聴体験だと思う。
まとめ:学びの導線が見えすぎると、物語ではなく教材に見える
『ふれる。』のように、日常に超常設定を1個だけ入れる青春映画は、感情を見えやすくする力がある。
ただの日常ドラマより、友情や本音や言葉のテーマを扱いやすい。
でも、その導線が見えすぎると、物語ではなく教材に見える。
心が読める。
心が読めなくなる。
すれ違う。
喧嘩する。
またつながる。
最後に、言葉にすることや相手を分かった気にならないことの大切さへ戻る。
その三段階シナリオが早めに見えてしまうと、
「はいはい、知ってます」
となる。
特に、同意や距離感を扱う場面が雑に見えると、
「心を読む前に距離感を読め」
と思ってしまう。
作品側の意図は分かる。
心が見えない最悪失敗パターンを見せて、
心が見える関係の危うさを見せて、
最後に、心が見えなくても言葉と距離感で関係を作るところへ戻したい。
たぶん、そういう設計だ。
でも、その導線には付き合えない時がある。
学びがある映画が悪いわけではない。
ただ、学び抽出装置が見えた瞬間に、物語から一歩引いてしまうことがある。
そして、それもまた正直な感想だと思う。
