音楽は、単なる商品より自己概念と結びつきやすい
音楽の好みは、何を消費するかという情報だけではない。
人は音楽の好みから、性格、価値観、所属集団、生活様式などを推測する。
RentfrowとGoslingは、3,500人を超える複数研究で音楽嗜好の構造と、性格、自己認識、価値観、認知能力との関連を調べた。
別の研究でも、音楽の好みや音楽的アイデンティティーは、自分を定義・評価するうえで一定の役割を持つことが示されている。
だから、推しを共有することは、単に商品ページを送ることではない。
自分はこういう音を良いと思う。
こういう感情や世界観に反応する。
この作品へ時間を使ってきた。
という自己開示でもある。
「自分には合わない」と「こんなの好きなの?」は違う
おすすめした曲が相手に合わないこと自体は、普通に起こる。
音楽の好みが一致しないのは、誰の失敗でもない。
しかし、反応には差がある。
境界を保った反応:
「自分にはあまり合わなかった」
「このジャンルは普段聴かないかも」
相手の感性まで採点する反応:
「微妙」
「こんなの好きなの?」
「どこがいいのか分からない」
「これを良いと思うセンスが分からない」
後者では、作品評価が推薦者評価へ拡張される。
推薦した側は、
曲が合わなかった
ではなく、
自分が大切にしているものを、雑な審査台へ出してしまった
と感じる。
そのため、一度か二度、好きなものを上から切られると、相手への布教意欲が消える。
これは過敏というより、情報更新である。
この相手は、自分の好きなものを丁寧に扱わない。
ならば、重要度の高いものは共有しない。
共有範囲を狭めるのは、合理的な境界設定になり得る。
推しを共有したい欲と、推しを守りたい欲は両立する
推しには二つの方向の欲求が生まれる。
- 良さを分かち合いたい
- 雑な反応から守りたい
布教に成功すれば、同じ場面、同じ曲、同じライブを語れる。
失敗すると、推しへ嫌な記憶が付着する。
そのため、重要度が高い推しほど、広く配るより相手を選びたくなる。
これは矛盾ではない。
大切だから見せたい。
大切だから誰にでも見せたくない。
の両方が成立している。
「おすすめ」を毎回採点競争にする人には、共有しなくてよい
おすすめを受け取った相手が、毎回次の位置へ移動することがある。
俺が評価してやる。
どれどれ、欠点を探してみよう。
あなたの推しが自分の審査に耐えるか確認しよう。
この状態では、共有が相互交流ではなく一方向の査定になる。
こちらが求めているのは必ずしも全面肯定ではない。
求めているのは、最低限、
- 好みが違っても嘲笑しない
- 相手が大切にしていることを理解する
- 感想を人格評価へ拡張しない
- 分からなくても分からないなりに扱う
という受け取り方である。
それができない相手を布教対象から外すことは、閉鎖的なのではない。
趣味の自己開示先を選んでいるだけである。
推しの布教は、相手を好きにさせることと、自分を認めさせることを分ける
布教が苦しくなるのは、目的が二つ混ざったときである。
目的A:
相手が作品に出会い、気に入る
目的B:
自分のおすすめが正しかったと相手に認めさせる
目的Aだけなら、相手が後から自分で見つけたと言っても、作品には届いている。
目的Bまで求めると、
それ、前に自分が勧めた曲だよね。
自分の推薦が当たっていたよね。
認めて。
という所有権争いになる。
もちろん、推薦者の存在を完全に消されれば少し腹は立つ。
それでも、推しを広めることと、推薦者として勝つことは分けた方が成功しやすい。
曲には届かせる。恩義までは回収しにいかない。
これが布教を長続きさせる。
