はじめに――異動通知は出た。だが本人は消えた

会社の人事異動欄には、ちゃんと自分の名前が載った。

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1. はじめに――異動通知は出た。だが本人は消えた

会社の人事異動欄には、ちゃんと自分の名前が載った。

「○○部へ異動」

よし。新天地で頑張るぞ――となるはずだった。

現実はこうだった。

異動初日。初業務:退職手続き。

しかも引き継ぐ仕事も、引き継がれる仕事もない。旧部署の仕事はすでに手離れ済み。新部署ではまだ仕事を持っていない。結果、退職確定の連絡から最終出社まで、ほぼ一日で終わった。

人事異動のお知らせだけは社内に残る。本人は翌日からスーッといなくなる。

後から事情を知らない人が履歴だけ見たら、たぶんこう思う。

「異動先、初日で何したんだよ。いじめたんか?」

違います。

むしろ異動先の人たちはめちゃくちゃいい人でした。

事情と転職条件を話したら、受け入れる側の所属長や係長まで「あ、それなら行った方がいいね」と送り出してくれた。冤罪である。異動先は無罪である。

2. そもそも作戦は「異動か転職か」ではなく「両方」だった

最初から一本に賭けてはいなかった。

社内異動で環境を変えるルートと、外部転職で会社ごと変えるルートを並行して進めていた。どちらかが成功するまで、もう片方を捨てない。

大事なのは「辞める勇気」より、辞めても困らない盤面を先に作ることだった。

異動が通れば残れる。転職先の条件が圧倒的なら外へ行く。最終的に大手企業から、20代後半としてはかなり強い600万円台半ばの待遇が出た。そこで勝負はほぼ決まった。

周囲に条件を話すと、元上司も異動先の上司も「自分でも行く」「それなら行った方がいい」に収束した。

引き止めを突破したというより、引き止める理屈がなくなるところまで先に進めてから報告したのである。

3. 転職活動は「人間が求人サイトを眺め続けるゲーム」にしなかった

転職活動で一番面倒なのは、面接そのものより、その前にある大量の探索だ。

そこで人工知能をかなり実務的に使った。

まず、公開データなどから大企業の候補母集団を作る。次に、各社の採用サイトや大手求人媒体から、自分が応募できそうな求人を拾って企業単位でひもづける。さらに、勤務地、職種、年収、残業、夜勤、転勤、出張、働き方などの条件で機械的に落としていく。

つまり、

大企業の母集団を作る → 求人を結合する → 条件で削る → 残った求人だけ人間が見る → 面接だけ人間がやる。

採用担当者が応募者を選別する業務を、求職者側から逆回転させたようなものだった。

元上司は人工知能が好きだったので、退職面談の最後にこの方法まで渡した。

退職する部下が最後に置いていったものが、菓子折りではなく「人工知能を使った転職活動の業務設計」である。

4. 転職活動してる?――確定するまでは言えるわけがない

以前、元上司から「転職活動してる?」と聞かれたことがあった。

その時点では実際まだ本格的に動いていなかったので、「やってないです。リフレッシュしてました」と答えた。

ただ、内定後の答え合わせではこう言った。

「でも本音で、転職活動してますって言えないっすね。言えます?」

元上司も即答した。

「言えん」

終了である。

さらに元上司は「あの頃、絶対転職活動してると思ってた。でも休みが多いからデートかなとも思ってた」と言っていた。

上司の脳内:青春。

本人の現実:企業母集団作成、求人抽出、条件比較、面接。

人生の勤務先を入れ替えていた。

5. 大手内定が出た瞬間、昨日と同じ人間が急に「仕事できそう」に見える

一番おもしろかったのは、自分自身は何も変わっていないのに、大手企業への内定と待遇が判明した瞬間、周囲の見え方が変わったことだ。

昨日まで同じ職場にいた、いつもの人間である。

ところが、

「大手」 「一次サプライヤー」 「20代後半」 「600万円台半ば」

という情報が付いた瞬間、過去の実績まで「ああ、だから外で評価されたのか」と再解釈され始める。

研究でも、地位や経済的ステータスの手掛かりが、観察者の能力評価に影響することが示されている。もちろん会社名や給与だけで実力は決まらない。しかし、採用選考を通り、実際にその待遇を提示された事実は、本人の能力が突然増えたのではなく、外部市場による評価が可視化されたという意味を持つ。

要するに、能力値は昨日と同じ。

画面に市場価格が表示された。

6. 先輩の大手転職が、自分の「狙っていい上限」を壊してくれた

自分が大手を狙うようになった背景には、以前辞めた先輩の存在が大きかった。

その先輩が有名な大手企業に転職したと聞いたとき、初めてこう思った。

「え、この会社からそこ行けるんだ」

それまで大手は、自分とは少し別世界の選択肢だった。しかし、同じ会社で働いていた身近な人が実際に入った。求人広告の年収例より、この事実の方がはるかに強かった。

研究でも、同僚がより良いポジションへ移る「上方移動」は、残された社員の外部雇用可能性の認識を高め、転職意向に影響しうると報告されている。特に、元の仕事が似ている相手ほど「なら自分も」と考えやすい。

先輩が自分の上限認識を壊した。

そして今度は、自分が後輩や同僚にとっての実例になるかもしれない。

転職は本人だけが移動するのではない。残った人の『地図』まで書き換えることがある。

7. 異動初日――初業務は退職手続きです

内定承諾が固まり、いよいよ会社へ確定連絡を出した。

タイミングは、ちょうど異動後だった。

本来なら、

「今日からよろしくお願いします」 「まず業務説明をします」

で始まる。

こちらは、

「今日からよろしくお願いします。で、辞めます」

である。

異動先で最初に上司と進めた実務が、退職日、有給、欠勤、在籍期間などの退職処理だった。

しかも旧部署の引き継ぎはすでに完了し、新部署の引き継ぎはまだ始まっていない。

会社側:「引き継ぎすることある?」

自分:「ないです」

会社側:「引き継がれることある?」

自分:「ないです」

退職における最大級の面倒イベント、消滅。

8. 異動先の人たち、むしろ被害者である

異動先の所属長と係長は、たった一日しか一緒に仕事をしていない。それでもかなり良くしてくれた。

事情を話して、待遇や次のキャリアを説明すると「あ、それなら行った方がいいね」という反応だった。

受け入れる側なのに、送り出す側になっている。

そして社内掲示だけを見ると、

「○○部署へ異動」→すぐ退職

になる。

事情を知らない人:「異動先で何されたんだ……?」

違う。

異動先は何もしていない。むしろ転職を勧めてくれた。

人事履歴だけが勝手にサスペンスを作っている。

9. 社長、自責しすぎてこちらが気まずくなる

社長への挨拶では、「一番目にかけていた人が突然辞めるのは悲しい」「会社側、管理側にも問題があったと思う。何とかしないといけない」と、かなり自分たちの責任として受け止めていた。

こちらは逆に気まずくなって、「いや、いい会社ですよ」と返した。

すると「まあ、去る側としてはそう言うよな」というニュアンスの返しが入り、少し笑いになった。

さらに、元直属上司とはすでに円滑に退職面談を終えたと伝えると、社長は「それはもう自分の管理責任じゃなくなったからだろ」と一段深いところまで読んできた。

実際、異動前より異動後の方が退職を言いやすかった。そこは当たっている。

こちらは気まずくなって、

ニコニコして黙った。

社会人には、反論でも同意でもなく、笑顔だけが最適解になる瞬間がある。

10. 元上司との最終面談、送り出しの完成度が高すぎる

元直属上司――会話中では長らく「猿」と呼んできた人――との最終面談も、驚くほど円満だった。

引き止めるどころか「自分がお前の条件なら、そりゃ転職する」と言う。

さらに、

「こんないいところ他にないで、辞めるなよ」

「俺の下で四年半やってたなら、耐性だけはついたやろ」

「次の会社を辞めたくなったら、一回だけ連絡しろ。説教する」

「二回目は有料だからな」

最後は握手。

送り出し慣れているのかと思うほど完成していた。

「俺の下で四年半やってたなら、まあ続けられるでしょう」と言われたので、こちらが普通に「そうですね」と答えたら、

「そうですねじゃねえ」

と突っ込まれた。

いや、そこは本当にそうだと思っている。

11. 「逃げじゃなくて、やりたいことならいい」――最後にちゃんと上司だった

元上司からは、「自分のやりたいことをやるための退職ならよかった。逃げるだけじゃなくて」とも言われた。

そこで、業務のデジタル化や改善など、次でやりたいことを話した。

すると「それならいい」と返ってきた。

もちろん現職でしんどかったことがゼロだったわけではない。転職には「嫌なものから離れる」と「欲しいものを取りに行く」が同時に入っていていい。

今回の場合は、環境から離れるだけではなく、待遇、会社規模、将来の選択肢、やりたい仕事までまとめて取りに行った。

最後にその説明が通り、上司側も納得して送り出した。

12. 「あなたの部下、大手に行く人材に育ってますよ」――退職日の特別お世辞

以前辞めた先輩も大手へ行き、今回も自分が大手へ行く。

そこで元上司に、かなりサービス精神を込めて言った。

「あなたの部下、大手に行ける人材に育ってますよ」

元上司は、「お前は普段お世辞を言わんから、それは受け取っとくわ」と言った。

こちらの返事は、

「思っててください」

肯定もしない。否定もしない。

そのまま気持ちよく持って帰ってもらう。

退職日には、こういう優しさもある。

なお、完全な嘘でもない。四年半その環境で働いた経験が、今の市場評価に何も影響していないとは言えない。

事実に、お世辞を少々。

13. 転職先当てクイズが社内で始まった

転職先の会社名は広く言っていなかった。

しかし、一人には地域、一人には業界、一人には企業規模、一人には一次サプライヤー、一人には待遇――という感じで、情報をバラバラに渡していた。

すると係長が隣の席で普通にネット検索を始めた。

「そんなこと言ったらバレるよ」

と言いながら、本人が一番楽しそうに調べている。

途中で「候補はこの二社くらいじゃない?」と、かなり絞られた。

会社名は伏せているのに、

社内の断片情報を結合すると答えが出る。

退職面談が、分散型の企業当て謎解きゲームになった。

こちらが係長に「一緒に来ますか?」と聞くと、周囲を見ながら「そういうこと言ったらいかん」と笑われた。

さらに「俺は年齢的になあ……」と、一瞬ちゃんと転職可能性を計算してから止めに入るのが面白かった。

14. 社長と係長、退職者を将来の営業窓口として見る

さらに面白かったのが、会社側の発想が早々に「引き止め」から「将来の取引」に移ったことだ。

社長からは「向こうでうちに仕事を発注させて……いや、それはダメか」と冗談を言われた。

係長からも「偉くなったら提案して」と言われた。

社員 → 退職者 → 将来の仕入先候補を持つ人

への変換が早い。

ここまで来ると、転職先が多少知られても「邪魔してやる」ではなく「将来、仕事くれ」の空気である。

もちろん実際の取引は、利益相反、機密保持、正式な調達ルールに従う必要がある。ただ、関係性として敵対ではなく、次の接点を笑って想像できるところまで円満だった、ということだ。

15. 直属が役員になった結果、休暇処理まで妙に強かった

異動後の直属がかなり上位の役職者になったことも、退職処理には大きかった。

残っていた有給休暇や欠勤などを組み合わせ、次の会社の入社直前まで在籍をつなぐ形が通った。

別部署なら同じ扱いにならなかった可能性も高い、と後から聞いた。

下手をすれば「月末で退職」となり、有給を十分使えないまま終わっていたかもしれない。

今回は、最終出社は早く終わる一方、在籍は次の入社直前まで続く。

友人に話したら、第一声は、

「長すぎて草。旅行行けるやん」

だった。

その通りである。

なお、年次有給休暇については、厚生労働省・労働局も、退職日まで在籍している間は取得でき、退職日を越えて時季変更することはできないと案内している。一方、実際の在籍延長や欠勤の扱いは会社との個別調整であり、今回の事例を一般化はできない。

16. 旧部署にはほぼ挨拶しなかった。そして最後に「相変わらず」を確認した

旧部署の全員に挨拶回りはしなかった。

必要な相手、世話になった相手、今後も連絡を取る相手には挨拶した。それで十分だった。

そして最後に旧部署を見たら、一人のインターン対応に複数人が集まっていた。

こちらの感想は一つ。

「相変わらずやなあ」

人そのものが嫌いだったというより、以前から気になっていたのは、仕事の設計、人数の使い方、責任の置き方、未定義な仕事の増え方などだった。

最後の日にも同じ景色が見えたことで、妙に納得して終われた。

17. 悪い人はいなかったのでは?という、退職後に発生したバグ

数か月前なら、元上司の連絡先は退職したら即ブロックしようと思っていた。

しかし最後が、握手、「困ったら一回連絡しろ」、「二回目は有料」で終わった。

結果、

「まあ、ブロックは控えてやるか」

くらいまで評価が戻った。

ここで気づく。

会社には問題があった。

管理にも問題があった。

しんどい場面も確実にあった。

それでも、最後に話してみると、社長も、元上司も、異動先の上司も、別に「悪人」として終わらなかった。

問題のある行動と、人物全体の善悪は別である。

組織の構造、役割の曖昧さ、待遇差、仕事との相性が、人間関係以上に大きかったのかもしれない。

悪役を一人決めないと説明できない退職ではなかった。

これはかなり良い終わり方だった。

18. 履歴書を壊さずに出た――中で何があっても、外から見ると綺麗

元上司には「履歴書の外面は綺麗なんですよ」と言ったら笑われた。

実際、四年半ほど在籍し、業務改善などの実績を積み、短期離職を繰り返さず、在職中に次を決めてから大手へ移る。

外から見れば、かなり一本筋が通っている。

社内では、異動、ストレス、転職、休暇、退職手続きと色々あった。

履歴書では、

「数年間勤務。改善実績を積む。次の成長機会として大手企業へ転職。」

終了。

嘘は書いていない。

書かなくていい混沌を書いていないだけである。

勢いで辞めて職歴を傷つけるのではなく、次のカードを取るまで在籍し、実績と勤続年数を市場で換金してから出た。今回の転職で最も効いたのは、ここかもしれない。

19. まとめ――生きるのが上手いというより、「面倒が起きる前に盤面を作った」

今回の退職は、勇気で押し切った話ではない。

異動という内部ルートを残した。

転職という外部ルートも進めた。

人工知能で探索コストを下げた。

確定するまで余計な情報を広げなかった。

内定、待遇、入社日を固めてから開示した。

異動後で旧業務は手離れ、新業務は未着手だった。

引き継ぎはゼロ。

会社側も条件を聞いて「そりゃ行く」となった。

役員まで含めて円満に話が進み、退職確定からほぼ一日で最終出社。

最後は社長が自責し、元上司が握手し、係長が転職先をネットで当てようとし、将来は「うちに仕事をくれ」と言われた。

そして社内の人事異動欄には、異動したはずの人間の名前だけが残る。

本人はもういない。

事情を知らない人は思う。

「異動先で何があった?」

何もありません。

異動先、めちゃくちゃいい人たちでした。

ただ、外の条件が強すぎただけです。

人生、全部の問題を正面突破する必要はない。

選択肢を増やして、面倒が発生しにくい位置まで自分を動かす。

今回うまかったのは、たぶんそこだった。

研究メモ

  • 厚生労働省「賃金構造基本統計調査」:年齢、企業規模、産業等による賃金構造を把握する基幹統計。
  • 厚生労働省・都道府県労働局「年次有給休暇」関連資料:退職直前の年休取得、退職日を越えた時季変更ができないこと等を案内。
  • Felps, W. et al. (2009), Turnover Contagion: How Coworkers' Job Embeddedness and Job Search Behaviors Influence Quitting, Academy of Management Journal, 52(3), 545–561.
  • Huang, W. et al. (2022), Does coworkers' upward mobility affect employees' turnover intention? The roles of perceived employability and prior job similarity, The International Journal of Human Resource Management.
  • Oh, D., Shafir, E., & Todorov, A. (2020), Economic status cues from clothes affect perceived competence from faces, Nature Human Behaviour, 4, 287–293.
  • 労働政策研究・研修機構(JILPT)「ミドルエイジ層の転職と能力開発・キャリア形成」:転職活動、能力開発、転職後の賃金・役職・スキル活用等を分析。

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仕事や日常の「めんどい」を構造化して、次に動きやすくする記事を書いています。

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