1. 結論:数年いたのに、退場演出だけ一日だった
数年間いた会社を辞めた。ところが「退職します」と確定連絡したその日が、ほぼそのまま最終出社日になった。
しかも直前には人事異動の通知が出ていた。つまり社内記録だけ追う人から見ると、「異動した」→「翌日からいない」である。情報伝達より本人の消失速度の方が速い。
普通なら「送別」「引き継ぎ」「最終日まであと何週間」という助走がある。今回はない。異動先での初業務が退職手続き。引き継ぎはすることも、されることもない。必要な人と面談し、役員へ感謝を伝え、元上司と握手し、社長に挨拶して、そのまま終了。
長年勤務した人間のエンディングを一営業日に圧縮した。退職最速走者である。
2. そもそも「異動か転職か」の二重ルートだった
最初から「絶対に辞める」と一本化していたわけではない。現職で環境を変える異動ルートと、外へ出る転職ルートを並行で走らせていた。
異動先の人たちは実際にかなり良かった。役員も以前から目をかけてくれて、すれ違えば声をかけ、困った時には異動まで動いてくれた。だから「会社の全員が嫌だったので脱出」という話ではない。
一方で転職先は、自動車業界の大手一次サプライヤー級。20代後半としてはかなり強い600万円台半ばの処遇になり、仕事も調達・業務改善・デジタル化など、これまでやってきたことを伸ばせる方向だった。
この条件を周囲へ伝えると、現職の元上司も異動先の管理職も反応がほぼ同じになった。
「それなら行った方がいい。」
本人を残したい感情と、本人のキャリアとして転職を勧める合理性は両立する。今回、それがものすごく分かりやすく可視化された。
3. 転職活動を「採用の逆回転」にした
転職活動で一番面倒なのは、求人を一件ずつ眺め続けることだ。そこで人力を減らした。
やったことはかなり実務的だった。
- 大企業の母集団をデータから作る。
- 各社の採用サイトや求人媒体から、応募可能な求人を拾う。
- 企業と求人をひも付ける。
- 勤務地、職種、年収、残業、夜勤、転勤などを構造化する。
- 条件に合わない求人を先に落とす。
- 生き残った求人だけ人間が読む。
- 面接だけは本人が行う。
要するに、採用担当が応募者を絞るのと逆向きに、求職者側が企業を選考した。
退職面談では、人工知能好きの元上司にこの方法まで置いてきた。「転職活動してる?」と昔聞かれた時点では本当にまだ動いていなかったが、結果が出た後に「でも実際、活動中に直属へ『転職してます』とは言えないですよね。言えます?」と聞いたら、元上司も「言えん」と即答。答え合わせまで完了した。
4. 市場価値は、応募しないと分からない
社内にいるだけでは、自分が外でいくらで評価されるかは分からない。
今回、応募は十社前後。すべて成功したわけではない。それでも大手から強い条件で一社決まったことで、初めて「ここまで狙ってよかったのか」が実測値になった。
実は以前、身近な先輩が大手企業へ転職したと聞いた経験が大きかった。それまでの「この会社からそんなところへ行けるのか?」という上限認識が、一気に壊れた。
研究でも、同僚の上方移動は、残った人の「自分も外で通用するかもしれない」という知覚された雇用可能性を通じて転職意向に影響しうると報告されている。身近な成功例は単なる自慢話ではなく、市場の上限を再設定する観測データなのである。
今度は自分の転職が、後輩にとって同じ役割を持つ可能性がある。
5. 昨日と同じ人なのに、大手と待遇で急に「仕事できそう」に見える
面白かったのは、転職先と待遇を話した後、周囲の反応が明らかに変わったことだ。
本人の能力は昨日から一切変わっていない。それでも「大手の一次サプライヤーが中途で採用した」「20代後半で600万円台半ば」という情報が付くと、過去の実績まで「だから外で評価されたのか」と再解釈されやすくなる。
これは単なる錯覚だけではない。採用選考を通り、実際にその処遇で契約するということは、外部企業からの評価が可視化されたということでもある。
社会的地位や所属先の情報が人物評価に影響することは心理学でも研究されている。つまり今回起きたのは、本人の能力値が上がったのではなく、能力値を推定するための外部シグナルが急に強くなったという現象に近い。
元上司には「履歴書の外面は綺麗なんですよ」と冗談を言った。短期離職を繰り返さず、数年勤務し、改善実績を作り、在職中に次を決めた。中で何があったかを全部知る元上司だからこそ、その冗談が一番ウケた。
6. 異動通知は出た。本人は消えた
今回最大の笑いどころの一つがこれだ。
社内には正式な異動通知が出ている。だから異動だけ知っている人は、「新しい部署で働いている」と思う。
しかし実際は、異動後の初日に退職を確定し、その日のうちに最終出社になった。
後から履歴だけ見た人には、
「異動先で即辞めた? 何されたんだ?」
と見える可能性がある。
違う。むしろ逆である。
異動先の人たちはめちゃくちゃいい人だった。
条件を話すと「それは行った方がいい」と送り出してくれた。異動先が原因ではなく、異動前から進めていた転職が、そのタイミングで確定しただけだ。
新部署、完全なる冤罪。
旧部署には異動時点である程度別れの挨拶も済んでいたため、退職時に改めて全員へ電話する気にもあまりならなかった。「電話しようかな……まあいいや」で終了。旧部署を横目に見れば、インターン一人に複数人で対応しており、「相変わらずやなあ」と思いながら静かにフェードアウトした。
7. 異動先での初業務:上司と退職手続き
普通の異動初日は、業務説明、担当紹介、引き継ぎ、今後の予定確認だろう。
今回は違う。
初業務:退職手続き。
「今日からよろしくお願いします」の直後に「で、辞めます」が来る。
さらに直属が経営層に近い役職だったため、退職日、有給、欠勤などの調整が非常に速かった。他部署なら同じ運用が通らなかった可能性がある、とまで聞いた。
異動ルートは本来「現職に残るための保険」だった。それが転職確定後、なぜか高性能な退職レーンへ変身した。
8. なぜ一日で終わったのか:会社側が持ち帰る宿題を先につぶしていた
当日いきなり魔法が起きたわけではない。
退職を伝える前に、必要な情報をかなりそろえていた。
- 次の会社は確定済み。
- 内定承諾済み。
- 承諾の受領確認も済み。
- 入社時期も確定。
- 希望する在籍終了時期を整理。
- 有給残日数を把握。
- 欠勤を含めた休み方も許容。
- 異動済みなので旧業務は手離れ。
- 新部署の担当業務はまだ持っていない。
つまり「辞めたいんですが、どうしましょう」という相談ではない。
完成済みの退職案件を持ち込んだ。
会社側から「一回考えて」「引き継ぎを整理して」「次の会社は本当に決まってる?」と戻される隙がほとんどなかった。
退職代行を使ったわけではない。しかし実務だけ見ると、退職代行を自分でやり、円満な会話だけ本人が回収したような速度だった。
9. 引き継ぎゼロという、異動直後だけに生まれた空白地帯
旧部署の仕事はもう手放している。
新部署の仕事はまだ持っていない。
したがって、
引き継ぐもの:なし。
引き継がれるもの:なし。
退職時に最も時間を食う工程が丸ごと消えた。
もし異動が数週間早ければ、新しい仕事を持っていて引き継ぎが発生したかもしれない。もし異動前なら、旧部署で大量の引き継ぎが必要だったかもしれない。
今回だけ、組織上の業務所有権がほぼゼロになる瞬間に退職確定が重なった。
奇跡的に「何も持っていない社員」が完成した。
10. 約一週間休み → 一日出社 → 約二か月休み。しかも無職ではない
直前に約一週間の連休があった。
その後、一日だけ出社。
そして最終出社が確定し、次の入社まで約二か月の長い非出社期間に入った。
友人の感想は「長すぎて草。旅行行けるやん」。
しかも制度上は、一定期間まで前職に在籍したまま、有給や会社と合意した欠勤を組み合わせる。見た目は無職なのに、書類上はまだ在籍中という謎の状態だ。
一般論として、日本の労働局は、退職予定者も在籍中であれば退職日まで年次有給休暇を取得でき、使用者は退職日を越えて時季変更することはできない、と説明している。ただし今回の「有給+欠勤+在籍延長」の具体的な組み方は会社との個別調整であり、誰にでも同じ形が使えるという意味ではない。
昔、仲間に「今の連休と次の休みを合体させて巨大連休を作りたい」と冗談で話していた。
ほぼ実現した。
間に一日だけ会社が挟まった。巨大連休を接着するホチキスの針である。
11. 退職面談劇場:自責する社長、優しい役員、送り出し慣れした元上司、企業特定する係長
社長
社長はかなり自責的だった。「目をかけていた人が辞めるのは悲しい」「会社側、管理側にも問題がある」「何とかしないといけない」と、自分たちの側に原因を引き取っていた。
こちらが「いい会社ですよ」と返すと、「去る側ならそう言うよな」という趣旨で場に笑いが起きた。
さらに、内定先が決まっている状態で社長に話を持ってきたことについて、「俺に受けろってことだよね」と理解していた。相談という形をした退職通知だと、一瞬で把握していた。
そして数分後には、転職先が調達職だと知って、「向こうでうちに仕事くれん?」。
自責から営業までが速い。経営者である。
役員
以前からすれ違うたびに声をかけ、異動にも力を貸してくれた。最後には「目にかけてもらってありがとうございました」と、その事実に対してだけ素直に感謝を返した。
会社の裏側を全部説明する必要はない。言われたこと、してもらったことに対して返す。これを勝手に「ハチワレ式コミュニケーション」と呼んでいる。
元上司
元上司は「自分だったらその条件なら転職する」と認めたうえで、「やりたいことをやる転職ならいい」「俺の下で数年やれたなら耐性はついたやろ」「次の会社は辞めるな」「辞めたくなったら一回だけ連絡しろ。二回目は有料」と言って、最後は握手。
あまりに送り出しの型が完成している。
こちらが「あなたの下から大手に行く人が複数出てる。大手に行ける人材を育ててますよ」と、かなり送別会価格のお世辞を言うと、「お前はお世辞を言わないから、それは受け取っておく」。
返答は、「思っててください」。
否定しない。保証もしない。最高の着地点だった。
係長
転職先を知りたくて、隣の席で検索を始めた。
「大手」「三重方面」「自動車」「一次サプライヤー」など、こちらが断片的にヒントを出しすぎたせいで、頭文字二択まで絞られた。
「そんなこと言ったらバレるよ」と言いながら、自分が一番熱心に特定している。
最後には「偉くなったらうちを提案して」。
こちらが「じゃあ来ますか?」と返すと、周囲を見て「そういうこと言っちゃだめ」。転職者の無敵時間である。
12. 退職者から将来の顧客候補へ:買う側に回ると関係が反転する
新しい仕事は部品調達。つまり、サプライヤーから買う側になる。
前職からすると、辞める社員が「将来、自社を仕入先候補として見られる側」へ移動する可能性がある。
だから社長の「仕事くれ」、係長の「偉くなったら提案して」は冗談として成立しつつ、完全な空想でもない。
前職には営業の同期もいる。将来、本当に製品や技術が要件に合うなら、「こういう案件に対応できる?」と営業窓口へつなぎ、正式な見積・品質・価格・納期・コンプライアンスの選定手順へ乗せることはあり得る。
もちろん、元社員だから優遇するのはダメだ。むしろ関係性があるからこそ、公平な調達プロセスが必要になる。
社員を失った社長が、数分後には将来の顧客チャネルとして見始める。
社長、切り替えが速い。
13. 先輩の大手転職が自分の上限を上げ、今度は自分が後輩の上限を上げる
以前、自分より先に辞めた先輩が大手へ転職したと聞いた。
それはかなり大きかった。
「この会社からそんなところへ行けるんだ。」
この一例だけで、自分が応募していい企業のレンジが上がった。
今回、自分も大手へ行く。社名や詳細を後輩へ積極的に開示したわけではないが、職場では「大手へ行ったらしい」くらいの噂は流れるだろう。
それで十分かもしれない。
後輩が「この会社からでも大手を受けていい」と思えるなら、先輩から受け取ったものを別の形で返したことになる。
身近な同僚の上方移動が、他者の外部雇用可能性認識に影響するという研究結果ともよく噛み合う。
転職成功者が残す最大の置き土産は、場合によっては引き継ぎ資料ではなく、「そこまで狙っていい」という前例なのかもしれない。
14. 「俺の下から大手が二人」――そこに潜む生存者バイアス
ここから急に注意が必要になる。
元上司の配下から大手へ行った人が複数いる。
これだけを見ると、
元上司の下に行く
→ 鍛えられる
→ 大手へ行ける
という美しい育成理論が完成する。
しかし同じ環境には、普通に退職した人、休職した人、退職代行を使って抜けた人など、別の結末もある。
成功者だけを見て「この育成法が効いた」と考えるのは、まさに生存者バイアスである。組織研究でも、失敗例が観測・共有されにくいことで、成功例から誤った管理理論が生まれる「失敗の過少サンプリング」が指摘されている。
ところが最後に本人が「あなたの下から大手に行ける人材が育ってますよ」と褒めて帰ってしまった。
数年後、
「俺の下から大手二人出してるからな」
と後輩に語っていたらどうするのか。
知らん。
ただし、その成功物語の最後の認証シールを貼ったのは自分である。
15. 結局、悪い人はいなかったのか
最後が円満すぎると、「じゃあ途中の問題は何だったの?」となる。
答えは単純ではない。
人として悪い人でなくても、管理方法が合わないことはある。善意があっても業務設計が弱いことはある。会社全体に良い人が多くても、一部の運用や構造が人を消耗させることはある。
今回、社長は会社側の問題を自責した。役員は以前から助けてくれた。異動先の人は良かった。元上司も最後は握手で送り出した。
だからといって、過去のしんどさが消えるわけではない。
「問題はあった。でも、世話になった人には感謝する。」
この二つを同時に持てたことが、円満退社につながった。
誰かを完全な悪役にしなくても、転職はできる。
そして「終わり良ければ全て良し」は、途中を無かったことにする言葉ではなく、最後に余計な傷を増やさなかったという意味で使うのがちょうどいい。
16. 「はい終わり、帰ります」――完走した瞬間にゲームへ行ける脳は何なのか
普段から定時になれば「はい、今日の仕事終わり。帰ります」と切り替える。
今回も同じだった。
数年間の会社員生活を閉じる日なのに、
退職処理完了
→ 完走した
→ ではゲームをやります
である。
これは単なる「サバサバ系」より、研究上は仕事からの心理的デタッチメントと、不要になった目標から資源を引き上げる目標離脱・再関与で考える方が近い。
心理的デタッチメントとは、勤務外に仕事から精神的・感情的に離れること。メタ分析では、デタッチメントは回復やさまざまな健康・仕事関連アウトカムと関連することが示されている。
また、2025年公表の大規模メタ分析では、達成困難・不要になった目標から離脱し、別の目標へ再関与する「目標調整」が235研究・1,421効果量で整理されている。すべてが単純に良いという話ではなく、証拠の質には幅があるが、「状況が変わったら目標への資源配分を変える」という自己調整の枠組みは今回とよく似ている。
このタイプの特徴は、未確定中にはかなり考えることだ。
未確定:調べる、比較する、構造化する、出口を作る。
確定:はい終了。次。
冷たいのではない。
完了フラグが立った案件に、追加の思考資源を払わない。
17. ただし書類は残る――感情的完了と実務的未完了は別フォルダ
「全部終わった! ゲーム!」と言いながら、頭の片隅では「返却物あるな」「書類やらなきゃな」「手続きは明日でいいか」と考えている。
ここも面白い。
会社という大きな案件は感情的には完了している。
しかし事務作業という小さな案件は、まだ開いている。
だから、
会社への未練:閉じた。
返却・書類:未処理。
ゲーム:起動。
が同時に成立する。
「全部忘れる」わけではない。完了済みと未完了を別々に管理しているだけだ。
これは、未定義のものには強く負荷を感じる一方、終了条件が決まると一気に処理できるタイプにもよく合う。
18. 今回うまくいったものを分解すると
今回の成功を「運が良かった」で全部片付けるのも違うし、「全部実力だった」と言うのも違う。
自分で作った部分
- 異動と転職を並走させ、片方が失敗しても戻れるようにした。
- 転職先を確定させてから退職を出した。
- 内定承諾、入社時期、有給、退職希望時期などを事前に整理した。
- 求人探索をデータ処理化し、人間が見る件数を減らした。
- 短期離職で履歴を壊さず、在職中に次を決めた。
- 必要な人には感謝し、余計な対立を増やさなかった。
偶然うまく重なった部分
- 異動直後だったので引き継ぎがゼロになった。
- 決裁権の強い上司が受け入れ側だった。
- 休暇・欠勤・在籍期間の個別調整が通った。
- 転職確定のタイミングが、異動直後という奇妙に都合のいい場所へ落ちた。
つまりこれは、準備していた人間のところへ、都合のいい偶然が来た時に全部拾えたという話である。
19. エピローグ:「あれ、もういないの?」
数日前まで、仲の良い管理職には「異動になるか、転職になるか、まだ分からない」と話していた。
「別工場で会ったらよろしくね」とまで言っていた。
その後に連休。
連休明け初日。
異動。
退職確定。
最終出社。
消失。
別工場で後から探した人は、たぶんこうなる。
「あれ、もういないの?」
いる。正確にはまだ一定期間在籍している。
でも出社はしない。
数年間いた会社なのに、社内の噂が一周する前に本人が先に消えた。
そして本人は、退職後の壮大な感傷に浸るでもなく、
「書類は明日やるか。今日はゲーム。」
で終わる。
葛藤編、転職編、異動編、退職編。
完走。
次回からは、巨大連休編である。
20. 後日談:そもそも転職活動、かなり前から始まっていた
退職が全部終わったあと、何気なく昔の転職サイトの履歴を掘った。
そこで出てきたのが、かなり前に受けていた専門部品メーカーからのスカウトと面談記録だった。自分では「最近になって本格的に転職した」感覚が強かったのに、記録を見ると、ずっと前から外の会社の話を聞き、調達系の仕事を候補に入れていた。
記憶としては残っていた。「ベアリングっぽい会社と話した」「地方勤務の話だった気がする」「面談した感じもなんとなく覚えている」。ただし会社名が混ざっていた。
つまり転職は突然始まったイベントではなかった。本人の認識より前から、伏線だけは置かれていた。
人生のイベントは、その場では単発に見える。後からログを並べると、急展開ではなく長編だったと分かる。
21. 記憶は会社名を保存せず、「ベアリング会社」というフォルダに全部突っ込む
昔の面談相手を思い出そうとしたとき、最初に浮かんだのは別の大手部品メーカーだった。
「たしかここじゃなかったっけ?」
しかし履歴を確認すると、実際にスカウトから面談まで進んでいたのは別の専門メーカーだった。
脳内では、
- ベアリング
- メーカー
- 調達
- 地方拠点
- 転職サイト
- 以前に話を聞いた
という属性だけが残り、会社名のラベルが後から別ファイルと結合されていたらしい。
別に珍しいことではない。人間の記憶はデータベースではない。だが、自分の転職史を掘っている最中にこれが起きると、「俺の職歴の監査なのに、俺自身が一番あやしい」という状態になる。
最終的にはメール履歴が勝った。記憶、敗北。ログ、勝利。
22. 他社を比べるたびに、次の職場がだいたい強い
そこから話は企業比較に移った。
「あの大手メーカーって結構でかいよな」 「給料は?」 「転勤は?」 「海外は?」
気づけば、すぐ比較している。
そして面白かったのが、別の有名メーカーを調べるたびに、次の職場がだいたい強いことだった。
会社の大きさだけなら相手も十分大手。給与も悪くない。福利厚生もある。海外展開もある。それでも、自分が今回重視した条件――待遇、働き方、勤務地との相性、職種、今後の伸びしろ――をまとめて見ると、次の職場がかなり上位に残る。
これは「世界一の会社を引いた」という話ではない。比較軸を自分用に設定したとき、弱点が少なかったという話である。
転職先を決めた直後より、他社を何社も横に置いた後の方が「これ、結構いいの取ったな」と分かってくる。
内定通知より、比較表の方が後から効いてくる。変な話である。
23. 退社のスニーキングミッション、普通に失敗
一方、退職側では「できれば静かに最後の手続きを済ませて帰ろう」という気持ちがあった。
ところが実際には、全然スニーキングできなかった。
用事が残っていたので会社へもう一度行く。そこで別の人から荷物を持っていってほしいと頼まれる。普通に人前を歩く。普通に遭遇する。
隠密行動、開始数分で終了。
さらに、退職連絡自体は管理者層にはすでに展開されていた。だから、すれ違った相手は事情を知っていた。
相手は異動したことも知っていた。そこへ退職情報まで入った。
結果、頭の中では当然こうなる。
「え、異動して一日で辞めるの?」
そして実際に言われたのが、あの一言だった。
「やってんなーと思いました」
24. 「やってんな」が絶妙すぎる
この「やってんな」が本当に便利である。
褒めているわけではない。怒っているわけでもない。呆れてはいる。でも悪意はない。むしろちょっと面白がっている。
分解すると、たぶんこうだ。
- 思い切ったことしたな
- ほんまにそれ実行したんか
- 普通はそこまで最短で行かんぞ
- 事情は分かる
- でも客観的に見るとお前かなりやってるぞ
- ちょっと面白い
これを全部まとめて、
「やってんな」
で終わる。
長い説明を圧縮しすぎている。
相手は「めちゃくちゃ驚いた」とも言っていたので、こちらは「そのリアクション見れなくて残念でした」と返した。
退職者と残る人の会話としては、だいぶ平和である。
25. 社内表示だけ「異動しました!」を続けている
さらに面白かったのが、本人が退職ルートに入ったあとも、社内の異動掲載が残っていたことだ。
管理者側の情報:退職します。
社内表示:異動しました!
本人:もうほぼ帰ります。
三者の時系列が合っていない。
事情を知らない人が表示だけ見れば、新部署で普通に働き始めたと思うだろう。ところが実物はもう退職処理を終えている。
システム上には新章開始のお知らせが残り、現実ではその章が第一話で最終回を迎えていた。
新天地編、全一話。
打ち切り漫画でも、もう少し説明がある。
26. 半月延命ルートを「欠勤がいいです」で閉じる
会社側には配慮もあった。
「すぐ全部終わらせなくても、しばらく仕事を作って出てもらう形もできる」
というルートが一時的に見えた。
普通ならありがたい提案である。
ただ、こちらはすでに次が決まり、旧部署の仕事は手離れし、新部署ではまだ担当を持っていない。そこで半月だけ仕事を新しく作ると、会社は仕事を生成し、本人は消化試合をすることになる。
そこで出た答えが、
「欠勤がいいです!」
強い。
字面だけ見ると相当やっている。
しかし状況を分解すると、会社に新しい引き継ぎを発生させず、本人も無意味に仕事を覚えずに済む。結果として合理的だった。
配慮による延命イベントを、自分からキャンセルしたのである。
27. バックレでも代行でもない。「正式ルート最短走」だった
この退職が面白い最大の理由はここにある。
バックレではない。
退職代行でもない。
喧嘩して即日帰宅したわけでもない。
異動の辞令を受け、異動し、必要な人へ退職意思を伝え、退職日や休暇・欠勤を調整し、必要な手続きを通した。
全部、正規ルート。
なのに結果だけ見ると、
異動 → 一日 → 退職ルート突入。
理論上できるとは思っていた。家族にも「連休明け、一日か二日くらいで終われないかな」と話していた。
しかし本人も、本当にそこまできれいに条件が噛み合うとは思っていなかった。
旧業務は手離れ済み。新業務は未取得。次の仕事は確定。退職意思も確定。会社側との調整も成立。
バグ技を使わずに、最短に近い経路が開いた。
だからこれは「無茶な退職」というより、正式ルートの最短走である。
28. 事情を知らない人から見たら、新部署が完全に冤罪
もちろん、外から時系列だけ見ると話は違う。
「異動した」
「一日いた」
「辞めるらしい」
ここまでしか知らなければ、
「新部署で何があった?」
となる。
もっと想像力豊かな人なら、
「一日で見切って退職代行使った?」
まで行くかもしれない。
違う。
新部署は何もしていない。
むしろ転職条件を話したら、送り出す側に回ってくれた。
異動先は完全なる冤罪である。
原因は新部署ではなく、異動前から走っていた転職ルートが、たまたま異動直後にゴールしたことだった。
社内履歴だけが勝手にサスペンスを作っている。
29. エピローグ:「やってんな」は、たぶん最高の総評だった
振り返ると、本人も「異動一日で退職はやってるな」と思う。
制度上はできる。
事情もある。
誰かに迷惑をかけるためにやったわけではない。
会社側とも話を通している。
それでも、出来事だけ切り取ればおかしい。
異動しました。
一日働きました。
辞めます。
欠勤がいいです。
異動表示はまだ残っています。
そりゃ「やってんな」になる。
しかも、かなり前の転職サイトの面談記録まで掘り返すと、この一日退職は突然の気まぐれではなく、長く続いていた外向きルートの最終局面だったことも分かる。
内側では長編。
外から見ると一話完結。
その落差が面白い。
たぶんこの件を一番正確に表現したのは、長いキャリア論でも転職論でもない。
すれ違いざまの、たった一言だった。
「やってんなーと思いました」
はい。やってました。
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