「奥つめてー」で突然始まる車内の牧場
バスに乗る。
こっちは普通に客である。
ところが混んでくると、急に聞こえてくる。
「奥つめてー」 「そこ立たないでー」 「先に乗ってー」 「早くしてー」
敬語はどこへ行った。
さっきまで公共交通だったのに、数秒で牧場の誘導が始まった。
もちろん、すべての運転手がこうではない。丁寧な人も多い。
ただ、一部の運転手がやたらタメ口っぽく、高圧的に聞こえるのには、仕事の構造として少し理由がありそうだ。
結論から言うと、バス運転手は「接客」と「安全運転」と「時刻表」と「大量の人間の流れの整理」を一人で同時に処理している。
そして遅れるほど、言葉から飾りが消えていく。
1. 接客業なのに、同時に交通整理係でもある
普通の接客なら、
「恐れ入りますが、もう少し奥へお進みいただけますでしょうか」
でも通る。
バスだと、その間にも人が乗る。後ろが詰まる。信号が変わる。発車時刻が過ぎる。
そこで文章が圧縮される。
「奥へお願いします」 ↓ 「奥つめてください」 ↓ 「奥つめてー」
敬語の圧縮ファイルである。
もちろん「運転手は敬語を省略して時短している」と直接証明した研究があるわけではない。
ただ、バス運転手の仕事では、時刻表を守ること、乗客へサービスすること、安全に運転することが同時に要求されると、職業研究でも整理されている。[1]
つまり「一人ずつ丁寧に会話する」だけが仕事ではない。
車内全体を止めずに動かすのも仕事である。
2. 敬語は数秒。でも、その数秒を一日中やる
「こちらへお進みください」と「こっち詰めて」。
差は数秒しかない。
客から見れば「その数秒くらい丁寧に話せばいいじゃん」と思う。
それも分かる。
ただ運転手側からすると、同じ案内を一日に何十回、何百回も繰り返す。
さらに、相手が一回で動くとは限らない。
イヤホンをしている。 スマホを見ている。 初めて乗るのでルールが分からない。 荷物が大きい。 後ろの人が止まっている。
すると案内は長文より、短く、聞き取りやすく、反応が速い形へ寄りやすい。
接客文ではなく、操作コマンドみたいになっていく。
人間向けなのにUIが「奥つめてー」になる。
3. 遅延すると、敬語がさらに蒸発する
そして遅れている時。
ここで言葉はさらに短くなりやすい。
平常時: 「奥へお進みください」
少し遅延: 「奥つめてください」
かなり遅延: 「奥つめてー!」
もう助詞まで危ない。
日本のバス運転手を対象にした研究では、仕事上のストレスとして「時間の圧」「遅い乗客への焦り」「乗客からの苦情」「事故への不安」などが抽出されている。[2]
なので、遅れている時に運転手が急いで見えるのは、完全な想像ではない。
ただし重要なのはここ。
急いでいることは、客に当たってよい理由にはならない。
短くなる理由は理解できる。
高圧的になることまで自動的に正当化されるわけではない。
4. そして車内は「牧場モード」になる
混雑しているバスで起きていることを、ものすごく雑に書くとこうなる。
前が詰まる。 ↓ 後ろから人が来る。 ↓ 入口が止まる。 ↓ 発車できない。 ↓ 運転手が全体を動かす。 ↓ 「はい奥つめてー」
接客というより群れの流れの制御である。
ここで客側に発生する感想が、
「牧場かな?」
である。
誰も牛ではない。
しかし「一人の客として話しかけられている」というより、「車内という一つの塊を右へ左へ動かされている」感じが強くなる。
これがタメ口以上に、高圧的に感じる原因かもしれない。
自分への会話ではなく、群衆への指示だからだ。
5. バス運転手の仕事は、要求同士がぶつかりやすい
ここは少しだけ研究の話。
バス運転手は、
- 安全に走る
- 時刻表になるべく合わせる
- 乗客に対応する
- 乗り降りを確認する
- 道路状況へ反応する
を同時に行う。
古い研究だが、都市バス運転手の仕事について、時刻表順守・乗客サービス・交通安全が重要で、ときに競合する要求だと整理されている。[1]
日本の研究でも、時間の圧や遅い乗客への焦りがストレス要因として出ている。[2]
つまり「早く行け」と「安全に行け」と「丁寧に対応しろ」が同じ人へ飛んでくる。
全部100点で同時処理できれば理想だが、人間なので余裕がなくなると何かが削れる。
そこで最初に削られやすそうなのが、
「恐れ入りますが」 「お手数ですが」 「よろしければ」
あたりのクッション言葉。
安全確認を削られるよりはマシだが、客側からすると急に距離が近い。
6. 「短い指示」と「感じが悪い」は別問題
ここを混ぜると話がおかしくなる。
たとえば、発車しそうな瞬間に立ち上がった人へ、
「座って!」
これは短くても合理的な場合がある。
安全が先だからだ。
一方で、普通に行き先を質問した客へ、
「だから○番だって!」
これは別。
安全上の緊急性がないなら、単に言い方が荒い可能性が高い。
だから評価するときは、
短かったか ではなく、
短くする必要があったか
を見ると分かりやすい。
緊急指示なら短さは機能。
質問対応で威圧するなら接客の問題。
同じタメ口っぽさでも、中身は違う。
7. 初見客ほど「なんで怒られてるの?」になりやすい
さらにバスには情報差がある。
運転手には、
「この停留所は前から降りる」 「ここは先払い」 「この時間は整理券不要」 「この乗り場はこの列」
が毎日の常識。
でも旅行者や初乗車の客には、全部初見である。
このとき運転手が「こんなの分かるでしょ」というテンションで短く言うと、客側は、
「いや、初めてなんだが?」
となる。
運転手にとって1000回目の質問でも、その客には1回目。
このズレがある。
だから「短く言う」は効率化できても、「分からない客を雑に扱う」まで行くと一気に感じが悪くなる。
8. 結論:敬語は時短で消える。でも牧場にしていいわけではない
一部のバス運転手がタメ口・高圧的に聞こえやすい理由をまとめると、
- 同じ指示を大量に繰り返す
- 運転しながら安全・時刻・乗降を同時処理する
- 遅延すると時間の圧が上がる
- 一人の客より車内全体を動かす場面が多い
- その結果、言葉が短い業務コマンド化しやすい
という構造はありそうだ。
なので、
「奥つめてー!」
と聞いた瞬間、
あ、敬語のデータ容量を削ってるな
くらいに見ると少し面白い。
そして遅延してくると、
敬語圧縮率90%。牧場モード起動。
になる。
ただし、理由が分かることと、何でも許すことは別である。
安全のための短い指示は必要。
時間に追われる事情もある。
でも、質問しただけの客を怒鳴る必要はない。
結局いちばん正確なのは、
「短くなる事情はある。でも高圧的でいいわけではない」
だと思う。
バスは公共交通。
たまに牧場。
でも客は家畜ではない。
参考資料(2件)
- Meijman, T. F., & Kompier, M. A. (1998). “Bussy business: how urban bus drivers cope with time pressure, passengers, and traffic safety.” Journal of Occupational Health Psychology, 3(2), 109–121. PubMed pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
- Nakai, H., & Ogawa, K. (2014). “Stress reactions among bus drivers: towards the development of an educational resource for better management of emotions.” The Japanese Journal of Psychology, 85(4), 373–382. PubMed pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
