ゲームBGMは「たまたま流れていた」が成立しにくい
一般的なヒット曲なら、共有空間で流れていても理由をぼかしやすい。
- 流行している
- プレイリストに入っていた
- 店で聴いた
- ラジオで知った
一方、ゲームBGM、とくに歌のない戦闘曲、街の曲、ボス曲などは、公共空間で偶然耳にする機会が比較的少ない。
そのため、車内で流すと、
そのゲームを知っている
曲名やサウンドトラックを探した
普段から曲単体で聴いている
その作品や場面に思い入れがある
という選択の履歴まで見えやすい。
「これ何?」は単なる作品名の質問かもしれない。
しかし流している側には、
何のゲーム?
この曲を普段から聴くの?
こういう趣味なんだ?
そこまで好きなんだ?
という追加質問の入口に感じられる。
ゲームBGMを流すことは、普通のBGMより少し、
自分のオタク棚を開けて展示する
感覚になりやすい。
曲だけでなく、体験と思い出まで紐づいている
ゲーム音楽は、音だけで好きになったとは限らない。
- 勝てなかったボス
- 初めて到達した街
- キャラクターの別れ
- 長時間遊んだ時期
- 物語の転換点
- 友人と遊んだ記憶
こうした文脈が曲へ圧縮されている。
そのため、相手の「微妙」が曲の構成への感想であっても、本人には、
その場面や思い出まで軽く扱われた
ように聞こえることがある。
相手はそこまで否定していない。
しかし自分の中で、音楽と体験が切り離されていないため、被害範囲が広く感じられる。
自分が聞く側なら気にしないのに、自分が流す側だと怖くなる
興味深いのは非対称である。
他人の車で知らないゲームBGMが流れていても、
へえ、こういうの聴くんだ。
何の曲だろう。
程度で終わる人は多い。
ところが自分が流す側になると、
趣味全体を分析される
変な人だと思われる
本気度を見抜かれる
曲だけでなく自分が採点される
と予測する。
これは、スポットライト効果と整合する。
スポットライト効果とは、自分の外見や行動が、実際以上に他人から注目され、記憶され、評価されていると見積もる傾向である。
関連する透明性の錯覚では、自分の緊張や内面が、実際以上に相手へ漏れていると感じやすい。
車内で大切な曲を流している本人には、その曲の意味が非常に大きい。
しかし同乗者には、数分間流れた一曲でしかない可能性が高い。
本人は自分の豊富な内面情報を基準に相手の視点を想像するため、
相手にも同じくらい意味が見えている
と過大評価しやすい。
それでも「全部、自意識過剰」で片付けなくてよい
他人は思うほど注目していない。
これはかなり妥当である。
しかし、だからといって好きな曲を人前で流せない感覚を、全部ばかげたものとして捨てる必要はない。
二つは同時に成立する。
見られている量は過大評価しやすい。
見せているものが自分にとって大切なので、少ない否定でも痛い。
過去に好きなものを雑に否定された経験があれば、警戒が残るのも自然である。
最近は否定されることがほとんどなくても、以前に学習した防御だけが続くこともある。
その場合、現在の危険というより、昔の予測モデルが残っている。
無理に大切な曲から試す必要はない
人前で音楽を流すことへ慣れたい場合も、最も重要な推しを最初から出す必要はない。
公開範囲を段階化できる。
第1段階:
拒否されても平気な曲
第2段階:
一般曲に近いゲーム曲、映画音楽に近い曲
第3段階:
少し思い入れがある曲
第4段階:
本当に大切な推し曲
ただし、これは「克服しなければならない課題」ではない。
一人で聴く時間を大切にすることも正常である。
重要なのは、
怖いから絶対に隠さなければならない
と決めるのではなく、
誰に、どの程度まで見せるかを自分で選べる
状態である。
「これ何?」への負担が少ない返し方
説明しすぎると、作品全体をプレゼンする場になる。
短く事実だけ置けばよい。
ゲームの曲。最近よく聴いてる。
○○ってゲームのBGM。自分はこれ結構好き。
ボス戦の曲。曲単体でも好きなんだよね。
ここで弁護を始めない。
ゲーム音楽だけどちゃんと作曲がすごくて。
一般音楽より劣るわけではなくて。
この場面を知れば良さが分かって。
と防御すると、自分から審査台を作ってしまう。
好きなものは、相手の許可を取る主張ではない。
自分はこれが好きである。
という事実として置けばよい。
