「歩いて」を教えていただけなのに、2時間後には在留資格と研究キャリアを設計していた話 ― N4漢字クイズが無料キャリアセンターになるまで
1. 始まりは「歩いて」だった
最初にやっていたことは、本当にただの日本語学習だった。
「毎朝、七時に起きます」
「駅まで歩いて行きます」
「図書館で本を借りました」
そんなN4前後の漢字問題を、四択のマーク式に直していた。しかも相手が理解しやすいように、問題は日本語、解説は英語。さらに「借りる」「貸す」「返す」「帰る」の違いまで派生問題を作った。
ここまでは普通だった。
ところが「返す」と「帰る」を説明したあたりから、なぜか日本語の授業が日本の在留制度へ侵入し始める。
2. N4の話をしていたら、技能実習制度が生えてきた
「N4ってどのくらい?」
「特定技能はN4なの?」
「技能実習って毎年試験あるの?」
話題が急に行政手続きの匂いを帯び始めた。
公式には、JLPT N4は「基本的な日本語を理解できる」レベル。身近な話題なら基本語彙・漢字で書かれた文章を読み、ゆっくりした日常会話なら大筋を理解できる水準とされている。
技能実習では、1号修了までに基礎級、2号修了までに随時3級、3号修了までに随時2級といった技能検定が関わる。つまり「毎年一段ずつ資格が上がる」という単純なゲームではない。
ここで会話は完全に「日本語の先生」から「制度説明係」へクラスチェンジした。
3. 特定技能と技術系在留資格は、同じ階段ではなかった
次に出た疑問がこれ。
「技能実習の次は特定技能で、そのあと技術VISA?」
調べると、ここが重要だった。
特定技能1号と、いわゆる技術VISAにあたる「技術・人文知識・国際業務」は、そもそも別の在留資格だ。製造業でいえば、特定技能は製造工程・組立工程などの技能業務が中心。一方、技人国は設計、プログラミング、技術開発など、大学等で学ぶ専門知識を使う仕事が中心になる。
つまり、
「技能実習を3年やった!」
「特定技能を5年やった!」
「経験値がたまった!」
「技術VISAに進化!」
というRPG方式ではない。
技人国で重要なのは、学歴・専攻や関連実務経験と、実際に採用される専門職の仕事内容とのつながりだ。
4. ここで突然、専攻が強かった
そこで経歴を聞いたら、水産・養殖系の工学分野を大学で学んでいたことが判明した。
さらに、研究機関でインターンをして、水生微生物系の研究補助まで経験していたという。
待て。
さっきまで「歩いて」の漢字を解いていた人から、突然「水産・養殖工学」「水生微生物」「研究機関」という単語が出てきた。
キャリア情報の開示順がおかしい。
この経歴なら、養殖技術、水質管理、微生物分析、魚病・衛生、養殖設備、技術開発、研究開発など、専攻とつながる専門職を探す意味がかなり出てくる。
日本語学習会のはずだったのに、気づけば「あなた、専門職ルートを捨てるのもったいなくない?」というキャリア面談になっていた。
5. 「N2必須」と言われた話を分解する
本人は以前、日本語学校の先生から「エンジニア系のVISAならN2が必要」と聞いたらしい。
ここも調べると、制度上の条件と就職市場の条件は分けた方がよかった。
技人国について、日本語能力試験N2が全職種に一律で法定要件になっているわけではない。入管庁の比較資料では、技人国の基本的な許可基準として大卒程度または一定の実務経験などが示されている。
ただし、企業側が求人条件としてN2やN3を求めることは当然ある。研究開発、品質関連、水質分析、技術文書、社内報告など、日本語を大量に使う職場ならなおさらだ。
だから先生の「N2が必要」は、
「N2がないと法律上VISA申請できない」
ではなく、
「専門職で採用されるためにN2くらい求められやすい」
という意味だった可能性がある。
この違いはかなり大きい。
6. なら、日本語だけではなく専門職の勉強も同時にやるべきでは?
N4は目の前の試験として大事。N3、N2も日本で長く働くなら強い。
でも最終目標が技術系専門職や研究職なら、日本語の級だけを上げ続けても、専門職の採用条件そのものは勝手に生えてこない。
むしろ、
- 水産・養殖系の専門知識を復習する
- 水質管理や微生物分野を整理する
- 大学の卒業証明・成績証明を準備する
- 研究インターンで何をしたか説明できるようにする
- 日本の水産・養殖・バイオ系求人を調べる
- 日本語はN3、N2を並行して伸ばす
という二本立ての方が自然だ。
特定技能で日本に残りながら準備し、専門職の内定を取れた時点で、仕事内容に応じて技人国や「研究」への在留資格変更を検討する。特定技能そのものが自動的に専門職VISAへ昇格するわけではない。
ここまで来ると、もう日本語学習ではない。
職業設計である。
7. 「研究」という在留資格まで出てくる
しかも日本には、技人国とは別に在留資格「研究」もある。
これは日本の公私の機関との契約に基づいて研究業務を行う人向けの資格で、政府関係機関や企業の研究者などが例として挙げられている。
ただし「研究所でインターンしたことがあります」だけで自動的に研究VISAが取れるわけではない。研究職としての採用、研究内容、学歴・研究歴などを含めて別途審査される。
そのため今回のような経歴なら、まずは専攻と結びつく技術職・開発職を探すルートが見えやすく、研究歴が十分にある場合は研究職ルートも検討できる、という整理になった。
N4の漢字問題から「研究者として日本で働くには」まで来た。
距離がおかしい。
8. 勉強ツールを探したら、今度はニュース教材の話になる
日本語の勉強方法としては、ニュースを使う案も出た。
多言語で日本の情報を確認できるサービスなら、まず母語や英語で内容を理解し、そのあと日本語で同じテーマを追う使い方ができる。
N4段階では簡単な日本語から始め、N3以降では普通のニュースや、自分の専門分野である水産・養殖・微生物系の記事へ広げる。
これなら「試験のためだけの日本語」ではなく、「将来の専門職で使う日本語」も同時に増える。
ようやく教育っぽい話に戻った。
戻ったと思った。
9. 最後はなぜか宗教上避ける食材の話まで行った
会話の終盤、食べ物の好みの話になった。
すると、宗教上は避けることになっている食材を、本人は実際には食べることがあるらしい。
しかも、
「食べすぎると気持ち悪くなる」
とのこと。
そこでこちらも、
「それ、味が嫌いなんじゃなくて宗教上ダメだから嫌いなの?」
「いや、食べてるんかい」
「しかも食べすぎて気持ち悪くなるんかい」
「それもう神からの警告では?」
くらいまで踏み込んだ。
N4日本語学習会の会話範囲ではない。
漢字、在留資格、研究キャリア、就職、日本語学習、宗教的食習慣。
守備範囲が球場を飛び出している。
10. 気づいたら2時間。キャリアセンターが完成していた
最初の仕事は「歩いて」の問題を出すことだった。
最終的にやっていたことは、
- N4漢字クイズ作成
- 選択問題の解説
- 技能実習制度の確認
- 特定技能の日本語要件確認
- 技人国との違いの整理
- 学歴・専攻の棚卸し
- 研究経験の確認
- 専門職候補の洗い出し
- N2が制度要件か採用要件かの切り分け
- 日本語と専門学習の並行プラン
- 日本での中長期キャリアのルート設計
- ついでに食文化と宗教の雑談
である。
もうキャリアセンター。
しかも無料。
「金取ります……」という感想になるのも当然だった。
11. 制度面だけ真面目にまとめる
- JLPT N4:基本的な日本語を理解できる水準。
- 技能実習の技能検定:1号修了までに基礎級、2号修了までに随時3級、3号修了までに随時2級が関係する。単純な「毎年1級ずつ上がる」仕組みではない。
- 特定技能1号:工業製品製造業では原則JLPT N4以上またはJFT-Basic等が日本語能力の基準。技能実習2号を良好に修了した場合、日本語試験等が免除されるケースがある。
- 技術・人文知識・国際業務:特定技能の上位互換ではない。自然科学・人文科学の専門知識等を要する仕事が対象で、製造業の例では設計、プログラミング、技術開発などが示されている。N2が全職種共通の一律要件という制度ではない。
- 研究:日本の公私の機関との契約に基づいて研究を行う業務向けの別の在留資格。
- 在留資格変更:日本に別の在留資格で滞在している人でも、新しい活動内容が別の在留資格に該当するなら、在留資格変更許可申請という仕組みがある。ただし許可は個別審査。
12. 結論:語学を教えていたら、その人の「使っていない専門性」が出てきた
今回いちばん面白かったのは、制度そのものより会話の変化だった。
日本語を教えるために「何の試験を受けるの?」「将来何をしたいの?」と聞いていくと、本人が持っている学歴、研究経験、将来像が次々に出てきた。
そして最終的には、
「日本語を勉強する」
だけではなく、
「その日本語を使って、元々持っている専門性を日本でどう使うか」
という話になった。
語学学習は、たまに人生設計の入口になる。
ただし普通は、「歩いて」から2時間で研究キャリアまで行かない。
それはもう授業ではない。
無料キャリアセンター臨時営業である。
