『花まんま』で幼いフミ子に死者の記憶が刺さったら、兄はなぜ図書館で裏取りを始めたのか
1. フミ子、子ガキなのに「知らない名前」を覚えるだけでなく練習する
『花まんま』の不思議さが一気に具体化するのが、幼いフミ子が「繁田喜代美」という名前を自由帳に何度も書いている場面だ。
単に「知らない名前を口にした」だけなら、子どもの聞き間違い、テレビで耳にした、夢で見た、誰かの会話を覚えていた、など現実的な逃げ道はいくらでもある。ところがフミ子は、名前を保持し、文字にし、何度も練習し、さらにその記憶を確かめる方向へ動く。
記憶だけ大人のセーブデータ、行動担当は子ガキ。
しかもフミ子は、怖がって止まるより「気になるから行く」に寄る。幼児の危機管理能力に、大人の記憶らしきものと妙な行動力が合体するので、兄からするとたまったものではない。
2. 「入れ替わった」のではなく、フミ子本人と別の女性の記憶が同居している
ここで「人格が完全に入れ替わったのか?」と思いたくなるが、作品側の説明は少し違う。
有村架純は公式イベントで、フミ子には「別の女性の記憶」が小さい頃から共存しており、それでも「フミ子の人生はフミ子の人生」として演じた趣旨を話している。[R2]
つまりイメージとしては、
フミ子が消える → 喜代美になる
ではなく、
フミ子本人
+
喜代美由来らしい記憶
である。
人格を丸ごと入れ替えたというより、知らないセーブデータがフミ子本人に読み込まれている。この設定だから、ホラーの「憑依」よりも、家族・記憶・自分は誰かという話へ寄っていく。
3. そして兄俊樹、小学生なのに図書館で新聞を調べる。救命ドラマ『TOKYO MER』級の調査力が早すぎる
妹が「昔はバスガイドだった」「こういう事件があった」と言い始めたとき、俊樹の行動が地味にすごい。
「子ガキの言うことや」で終わらない。
「前世や!」と即オカルトにも行かない。
図書館へ行って過去の新聞を調べる。
本人証言と外部資料を照合する。小学生である。
今なら検索窓に固有名詞を入れれば数秒で済むが、作中の時代なら紙の新聞資料を探す必要がある。妹の奇妙な話を、いったん「検証可能な主張」として扱っている。
鈴木亮平つながりで言えば、これはもう、救命ドラマ『TOKYO MER』の喜多見幸太になる前の子ガキ救命チーム適性試験に見えてくる。
異常を発見
→ 放置しない
→ 自分で調べる
→ 裏を取る
→ 守る側に回る
顔と体格が頼もしすぎる鈴木亮平が後に演じる「守る人」像まで脳内で混線してくる。ただし『花まんま』の俊樹は、災害現場なら頼もしそうでも、成人した妹の人生に対しては「兄貴ヅラ、そこまで入ります?」という境界線問題を抱える。このズレが面白い。
4. 現実ならまず「前世」ではなく、記憶の出どころを疑う
もちろん、現実に「亡くなった人の記憶が別の幼児へ転送された」と科学的に確認されたわけではない。
「その情報をどこから得たのか」を判断する働きを、心理学ではソース・モニタリングと呼ぶ。[R4][R5]
幼児期はこの能力が発達途中で、実際に見た、映像で見た、人から聞いた、想像した、といった似た情報源を大人より混同しやすい。3~4歳児を使った実験では、出来事を実際に見たのか映像で見たのかを区別する訓練によって、誤誘導への耐性が改善した。[R4]
なので現実の調査なら、いきなり「前世だ」とはしない。
どこでその名前を聞いた?
テレビや新聞で見た?
大人の会話を聞いた?
夢や想像と混ざっていない?
質問する大人が答えを誘導していない?
と潰していく。
「幼児は自他の区別がない」というより、自分の記憶の“入手元ラベル”がまだ雑になりやすいと考える方が近い。
夢と現実が混ざる感覚も、この「記憶の出どころ」という観点なら理解しやすい。夜の森で木と木の間の真っ黒な空間が妙に怖く見えるのと同じで、脳は情報が足りないところを勝手に補う。子どもの想像力は、ときどき脳内映像の描画性能が高すぎる。
5. それでも「繁田喜代美」の具体性と弁当再現まで行くから、映画として強い
一方、映画は当然そこを一段超えてくる。
名前だけではない。職業や事件の話があり、兄が新聞で照合する。そして、繁田家にまつわる「花まんま」の弁当の再現まで出てくる。
幼児が「なんか知ってる気がする」ではなく、家庭内の思い出に触れるレベルで具体的になる。
現実目線なら、「どこから情報が漏れた?」をさらに調べる場面である。映画目線なら、「偶然や聞きかじりでは処理しきれないところまで来たぞ」と観客を押す装置だ。
バージニア大学の研究グループは「前世の記憶を語る子ども」とされる2,500件以上の事例を収集しているが、これは「転生が科学的に確定した」という意味ではない。[R6] こうした事例研究があることと、超常的な原因が証明されたことは分けて考える必要がある。
『花まんま』は、その現実世界の説明し切れない余白を、弁当という家庭限定の記憶で物語として強くしている。
6. 冒頭の「結婚おめでとう」が、だんだん繁田家に見えてくる
ここまで見てから冒頭を思い返すと、「結婚おめでとう」とフミ子を祝っていた年上の家族らしき人たちが急に気になる。
公式情報では、繁田家は父・仁、長男・宏一、長女・房枝からなる、主人公兄妹と不思議な縁で結ばれた「もう一つの家族」と紹介されている。[R1]
だから視聴中には、
「冒頭で泣きそうになっていた痩せたおじいさん、あの仁では?」
という仮説が生まれる。
ここでは先の答え合わせはしない。大事なのは、最初は「誰この人たち?」だった映像が、幼少期パートを見ることで意味を持ち始めることだ。
そして仁の「娘を亡くして食べられなくなった」姿があまりに強烈なので、ここから映画レビューが別方向へ暴走する。
