ある入社前健康診断の日。受診者は寝不足だった。
それでも事前準備はかなりやった。電話を複数回。向こうから折り返しも来た。問い合わせメッセージにも残した。伝えたかった仕様は大きく三つだ。
- 会社負担分と、個人で追加した検査分の領収書を分ける。
- 結果の発送が転居後になるなら、新しい郵送先へ送る。
- 個人で追加した任意検査の結果は、会社提出用の結果へ混ぜない。
さらに「必要な検査項目は印刷して持ってきてください」と言われ、紙まで持参した。
ここまでやれば当日は受付で「あ、聞いてます」で終わると思うじゃん。
終わらなかった。
1. 事前確認を積み上げた。これで勝ったと思った
電話で説明し、折り返しで確認され、文字でも残した。普通なら「もう仕様は確定した」と思う。
ところが当日の受付では、かなりの部分を最初から説明し直すことになった。
寝不足の脳内ではこうなる。
え、昨日までのセーブデータどこ行った?
健康診断に来たはずなのに、最初に始まったのは身体測定ではなく要件定義の再レビューだった。
領収書はこう。結果はこう。郵送はこう。個人検査はここから切り離す。
受診者が自分で仕様書を読み上げてシステムを復旧している。
2. 当日、なぜか最初から
怖いのは「確認回数が多いこと」そのものではない。
本当に怖いのは、事前に確定したはずの条件が、当日の処理を始める時点で見えていないように感じたことだ。
医療の現場では、担当者や工程が変わるときに必要な情報を確実に渡すことが重要だ。米国の医療研究・品質機関は、引き継ぎを単なる伝言ではなく、情報に加えて責任まで移す標準化された方法として説明し、受け手が内容を認識したことの確認や、あとから見直せる記録の重要性を挙げている。[3]
世界保健機関の患者安全資料でも、引き継ぎ時の情報不足や誤解は診療の連続性を壊す原因になり得るとして、仕組みそのものの設計改善を重視している。[4]
もちろん、今回の一件だけで施設内の原因を断定はできない。ただ、利用者から見えた現象はものすごく単純だった。
「前に伝えたはずの情報を、当日また本人が供給している」。
3. 「印刷して持参」は最後の砦としては正しい
ここで急に意味が分かったのが、「検査項目を印刷して持ってきてください」という事前案内だった。
紙を持たせること自体は悪くない。むしろ強い。
予約情報がズレても、口頭の伝達が抜けても、当日その紙を見れば復旧できる。システム障害に対するバックアップみたいなものだ。
問題は、バックアップが主系統になった瞬間である。
施設側の記録が主役で、受診者の紙が最後の照合に使われるなら安全策だ。
逆に、施設側の情報が見えず、受診者の紙と記憶がないと条件を再構築できないなら、受診者本人が事実上のデータベースになる。
本日の役職:患者。
兼務:要件定義担当、障害復旧担当、最終バックアップサーバー。
4. 再確認そのものは悪くない
当日、一度説明したあと、同じ受付担当者からもう一度「結果の紙と郵送はこれとこれですよね」と確認された。
ここは切り分けたい。
この2回目の確認自体は、むしろまともな最終照合だった可能性がある。
最初に聞いた内容を登録し、その後に実際の発送や結果処理へ流す前に、もう一度本人へ確認する。これは事故を減らすための確認として理解できる。
だから問題は「二度聞かれたこと」ではない。
問題は、その前に電話やメッセージで積み上げた情報が、当日の最初の確認へきれいにつながっていなかったように見えたことだ。
安全のための再確認と、情報が消えているように見える再説明は、似ているけれど別物である。
5. 個人の任意検査は会社提出分と分けたい
今回とくに重要だったのが、会社用の健康診断と、個人で追加した任意検査を分けることだった。
厚生労働省の労働者健康情報の取扱いに関する手引きでは、法定外の健康情報を事業者が収集する場合、原則として利用目的などを示した上で本人同意が必要だとしている。また、労働者が自分で受けた健康診断結果を提出する場面では、事業者が必要とする項目を事前に示し、それ以外は提出不要と伝える対応が求められるとしている。[2]
つまり、「個人で追加したものまで会社提出用に全部盛りしないで」という感覚には、制度上の背景もある。
会社に必要な結果は会社用。
自分で追加したものは自分用。
ラーメンの無料トッピングではないので、勝手に全部乗せなくていい。
6. 住所より怖いのは処理条件のリセット
途中で郵送先住所も再確認した。
ここも整理すると、結果用紙に印字される住所の話と、封筒をどこへ送るかは別問題だ。
雇入時健康診断について労働安全衛生規則43条は、医師の健康診断から3か月を経過しない人が、その結果を証明する書面を提出した場合、対応する項目について事業者側の再実施を省略できるとしている。[1]
この制度上の中心は、受診時期と必要項目の結果証明だ。
一方、転居前後のどちらへ封筒を送るかは、結果を物理的に受け取れるかどうかという発送業務の問題になる。
だから今回いちばん怖かったのは、「書類に旧住所が印字されたら終わり」ではない。
発送先や、領収書分離、任意検査を会社提出分へ混ぜないという処理条件が、後工程でもちゃんと生きているかだった。
7. そして健診センターは人間ドック工場だった
事務処理だけで既にイベントが濃いのに、待合室を見ると普通に人が多い。
「こんなに健康診断を受ける人いたんだ」となる。
健康診断は、受付、採血、身体測定、視力、聴力、心電図、胸部撮影、診察など、短い工程を順番に回していく。
一人一人はそれほど長くなくても、工程ごとに待ち列ができる。
受診者はベルトコンベヤーには乗っていないが、気分としてはかなり工場である。
しかもこちらは寝不足。
脳はもう「次の部屋どこ?」しか処理していない。
8. 短パンに剥がされ、事務処理編から検査ライン編へ
そしてついに着替え。
短パン姿になった瞬間、それまでの「郵送先」「領収書」「結果の分離」という事務用語が急に消えた。
アニャ。
さっきまで業務要件を説明していた人間が、今は短パンで番号を呼ばれるのを待っている。
健康診断、フェーズ移行が激しい。
第1章:事前調整
電話、折り返し、問い合わせフォーム。
第2章:当日障害対応
仕様を再説明。
第3章:最終照合
「郵送これですよね?」に出動。
第4章:検査ライン
短パン。
健康になる前にプロジェクト管理能力が試されている。
9. 結論:患者を「歩くバックアップサーバー」にしない
今回の体験から見える改善点は難しくない。
施設側では、電話、問い合わせ、受付、会計、結果作成、発送で、最終確定した条件を一つの記録として参照できること。さらに、「未確認」「確認済み」「本人と最終照合済み」のように状態が分かれば、毎工程でゼロから聞き直す必要は減る。
受診者に紙を持ってきてもらうのも有効だ。ただし紙は最後の砦であってほしい。
本人がいないと前工程の情報を復元できない構造になると、患者が歩くバックアップサーバーになる。
一方、受診者側で現実的にできる防御は、重要条件を文字でも残すこと、当日は指定資料を持参すること、そして最後に「今日確認した内容が結果作成と発送まで引き継がれる記録になっていますか」と確認することだ。
……とはいえ、今回それをかなりやった上で当日もう一回説明している。
だから最終的な感想は、システム工学でも医療安全でもない。
頼むから前のセーブデータをロードしてくれ。眠い。
