はじめに:「これはハラスメントだった」と気づくまでに時間がかかる
ハラスメントは、外から見ると分かりやすい暴力や暴言だけではない。
むしろ厄介なのは、加害がきれいな言葉で包まれる場合である。
あなたのためを思って言っている。
成長してほしいから厳しくしている。
これは指導だから。
表現者ならこれくらい耐えるべき。
作品のために必要。
社会人として普通。
みんな通ってきた道。
こう言われると、受け手は自分を疑い始める。
自分が悪いのかもしれない。
自分が弱いだけかもしれない。
これをハラスメントと言うのは大げさかもしれない。
周りも止めないし、自分の認知がズレているのかもしれない。
この「自責化」こそ、ハラスメント構造のかなり危険な部分である。
2026年6月4日、表現の現場調査団は「ハラスメントインタビュー調査白書2025」を発表した。神戸新聞の報道では、美術や音楽、映画などの創作現場でハラスメント被害に遭った男女への聞き取り調査により、複数要因が重なって被害が深刻化する実態や、被害を自覚しにくい心理状況など、構造的な問題が浮き彫りになったとされている。
この記事では、表現の現場だけでなく、会社・学校・創作・芸能・職場一般にも通じる構造として、「あなたのため」で加害がロンダリングされる仕組みを整理する。
1. 表現の現場調査団とは何か
表現の現場調査団は、表現の現場におけるハラスメントや不平等を調査し、改善を目指す団体である。
公式サイトの発足宣言では、表現の機会や仕事を得るために暴言や暴力に耐えること、容姿や年齢について言及されること、男らしさや女らしさを意味もなく求められることなどを問題視し、「自由で平等な表現の現場」を築くための活動を5年間継続して行うと説明している。
この「5年間継続」という点は重要である。
単発の告発ではなく、現場にある構造を継続的に調査し、可視化し、言語化していく試みだからである。
表現の現場には、美術、映画、音楽、演劇、文芸、アニメ、伝統芸能など、さまざまな領域が含まれる。
そして、それらの現場では、しばしば次のような構造がある。
- 師弟関係
- 評価者と被評価者
- 出演機会・展示機会・仕事の紹介
- フリーランスや個人事業主
- 業界内の狭い人間関係
- 「作品のため」という強い大義
- キャリアを人質にした沈黙
- 断ると次の機会を失う不安
このような条件が重なると、ハラスメントは見えにくく、逃げにくく、言い出しにくくなる。
2. 2021年調査の数字:129人の「望まない性行為を強要された」
表現の現場調査団の過去調査では、かなり重い数字も報道されている。
金曜日の記事では、2021年の「表現の現場ハラスメント白書2021」について、1449人から回答があり、そのうち1195人が「何らかのハラスメントを受けた経験がある」と回答し、「身体を触られた」503人、「望まない性行為を強要された」129人という状況が把握されたと紹介されている。
ここで、129人という数字はかなり重い。
全回答者1449人を分母にすると、約8.9%。
ハラスメント被害経験者1195人を分母にすると、約10.8%。
つまり、回答者全体で見ても約1割弱、被害経験者の中では約1割強が、「望まない性行為を強要された」と回答していることになる。
もちろん、この数字をそのまま「表現の現場全体の1割」と一般化するには注意が必要である。
調査は無作為抽出の全国代表調査ではなく、回答者の属性や調査方法による偏りがある可能性がある。
しかし、それでもなお、この数字の重大性は消えない。
なぜなら、問題は統計的代表性だけではないからである。
「望まない性行為を強要された」と回答した人が129人いる。
この事実自体が、すでに重い。
しかも、性被害やハラスメントは、被害を認識できない、言えない、回答できない、思い出したくないという要因で、表に出にくい。
だから、数字は「これだけある」だけでなく、「これでも見えている分だけかもしれない」と見る必要がある。
これは、やばい。
かなりやばい。
3. 2024年調査でも、性的接触・性的要求の高さが示されている
表現の現場調査団の2024年調査に関する報道でも、性的なハラスメントの高さが示されている。
美術手帖の記事では、現在活動中の表現者で「キス・抱きつく・性的行為を求められた」と回答した人が14.6%であるのに対し、表現の現場以外で働く人では6.1%であり、2倍以上の差があったと紹介されている。
また、男性被害についても、男性が女性を上回る項目が多く、特に「キス・抱きつく・性的行為を求められる」を選択した男性は19.2%と報じられている。
ここで重要なのは、性被害は女性だけの問題ではないという点である。
表現の現場では、性別、年齢、経験、立場、師弟関係、仕事の機会、キャリア、評価権限など、複数の力関係が絡む。
そのため、被害の形も単純ではない。
- 女性が被害を受ける
- 男性が被害を受ける
- 若手が被害を受ける
- フリーランスが被害を受ける
- 裏方が被害を受ける
- 学ぶ側が被害を受ける
- 仕事を得たい側が被害を受ける
このように、被害は「弱い個人の問題」ではなく、構造の問題として見る必要がある。
4. 2025年調査:量ではなく、被害の構造を見る質的調査
2026年6月4日に発表された「ハラスメントインタビュー調査白書2025」は、神戸新聞報道によれば、2025年8月から2026年3月にかけて、表現の現場でハラスメント被害に遭った男女11人へのインタビュー形式で実施された。
これは、人数の多さを示す量的調査ではない。
むしろ、被害がどのように起き、どのように深刻化し、なぜ自覚しにくく、なぜ逃げにくく、なぜ周囲が止められないのかを見る質的調査である。
量的調査が、
どれくらい起きているか
を示すものだとすれば、質的調査は、
どういう構造で起きているか
を示す。
この「構造」が重要である。
ハラスメントは、単発の暴言や暴力だけで起きるのではない。
複数の要因が重なる。
- 権力差
- キャリア不安
- 業界の狭さ
- 仕事の機会
- 師弟関係
- 周囲の沈黙
- 被害者の自責
- 加害者の正当化
- 組織の未対応
- 相談先の不足
これらが重なって、被害は深刻化する。
5. 「あなたのためロンダリング」とは何か
この記事で特に重要なラベルは、あなたのためロンダリングである。
あなたのためロンダリングとは、加害・支配・圧力・人格否定を、「あなたのため」という言葉で洗浄して見えにくくすることを指す。
たとえば、職場ではこう言われる。
あなたのためを思って言っている。
成長してほしいから厳しくしている。
指導だから。
社会人として必要だから。
期待しているから。
みんな通ってきた道だから。
表現の現場では、こうなる。
作品のため。
表現者なら耐えるべき。
現場では普通。
本気でやるなら必要。
役作りのため。
チャンスを逃したくないなら我慢しろ。
こうなると、受け手は拒否しにくくなる。
なぜなら、拒否すると、
成長を拒んでいる
指導を受け入れられない
プロ意識が足りない
作品に本気ではない
自分が弱い
ように見えてしまうからである。
加害の本質はそのままなのに、言葉だけが善意になる。
これがロンダリングである。
6. 「指導」と「ハラスメント」の違い
指導とハラスメントは、外見だけでは紛らわしいことがある。
どちらも、相手に注意する。
どちらも、改善を求める。
どちらも、厳しい言葉が出ることがある。
しかし、決定的な違いがある。
指導
- 具体的な行動に対して行われる
- 改善方法が示される
- 人格否定をしない
- 反論や相談の余地がある
- 目的が業務改善・能力向上に限定される
- 必要な範囲を超えない
- 継続的に追い詰めない
- 権力差を濫用しない
ハラスメント
- 人格を否定する
- 恐怖で従わせる
- 反論を許さない
- 周囲の前で辱める
- 改善方法を示さず責め続ける
- 仕事や作品の名目で境界線を侵害する
- 「あなたのため」と言いながら支配する
- 相談や逃げ道を奪う
- 断ると不利益を示唆する
つまり、違いは「厳しいかどうか」ではない。
相手の尊厳・境界線・逃げ道・改善可能性を残しているかである。
7. 被害者が自分を責める理由
ハラスメント被害者が、自分を責めることは珍しくない。
むしろ、構造的に自責化しやすい。
理由はいくつかある。
1. 加害者が「善意」を装う
あなたのため。
成長のため。
作品のため。
指導のため。
こう言われると、被害者は「相手は悪意ではないのかもしれない」と考える。
2. 周囲が止めない
周囲が見ているのに止めない。
誰も問題にしない。
すると、被害者はこう考える。
みんな何も言わないなら、自分が大げさなのかもしれない。
3. 業界や職場に残りたい
仕事を失いたくない。
機会を失いたくない。
評価を下げたくない。
狭い業界で悪く言われたくない。
だから、自分の感覚を疑ってでも残ろうとする。
4. 加害者が評価権限を持っている
仕事を紹介する人。
師匠。
上司。
監督。
審査員。
発注者。
こういう人が加害者側にいると、逆らうコストが高い。
5. 被害を認めること自体がつらい
「自分は被害を受けた」と認めることは、精神的に重い。
だから、心が一時的に、
これは被害ではない
自分の問題だ
たいしたことではない
と処理しようとすることもある。
これは弱さではない。
自分を守るための反応でもある。
8. 周囲の傍観は、二次被害になる
ハラスメントの構造で、加害者本人と同じくらい重要なのが、周囲の傍観である。
周囲が見ている。
知っている。
気づいている。
でも止めない。
相談されても曖昧にする。
「あの人はそういう人だから」と流す。
「悪気はないと思う」と薄める。
「あなたも気にしすぎ」と返す。
これが、被害者にとってはかなりきつい。
なぜなら、周囲の傍観は、
これは問題ではない
あなたの感じ方が大げさ
ここではこれが普通
助けは来ない
というメッセージになるからである。
ハラスメントは、加害者1人で完結しない。
周囲の沈黙が、加害を現場の常識にしてしまう。
これが、傍観者込みの穴あき現場である。
9. 「周囲が傍観しているなら、自分が悪いのかも」は罠
被害者がよく陥る罠がある。
周りも何も言わない。
だから自分が悪いのかもしれない。
これはかなり強い罠である。
周囲が止めない理由は、被害者が悪いからとは限らない。
実際には、周囲にも事情がある。
- 自分も不利益を受けたくない
- 加害者に逆らえない
- 仕事や評価を失いたくない
- 面倒に巻き込まれたくない
- 何が起きているか正確に分からない
- その現場の常識に慣れてしまっている
- 被害者にどう声をかければいいか分からない
- 「自分が出るほどではない」と思っている
つまり、周囲が止めないことは、加害が正当である証拠ではない。
単に、その現場が穴あきである可能性がある。
猿が殴る。
周囲が見る。
会社や現場が曖昧にする。
被害者が自責する。
この構造ができると、ハラスメントは完成してしまう。
10. 表現の現場と会社の現場は、かなり似ている
表現の現場で起こる構造は、会社にもかなり似ている。
表現の現場では、
作品のため
役作りのため
現場では普通
プロなら耐えろ
チャンスを失うぞ
と言われる。
会社では、
あなたのため
成長のため
指導だから
社会人として
主体性が足りない
期待しているから
と言われる。
言葉は違う。
しかし、構造は似ている。
権力差がある。 評価権限がある。 将来の機会が握られている。 断ると不利益がある。 周囲が傍観する。 被害者が自責する。
これが共通OSである。
だから、表現の現場の調査は、表現業界だけの話ではない。
会社、学校、職場、部活、研究室、芸能、スポーツ、地域団体、家族関係にも応用して読める。
11. 善意偽装ハラスメントのチェックリスト
次のような言葉が出てきたら、注意した方がいい。
危険な言葉
- あなたのためを思って
- 成長してほしいから
- 指導だから
- 社会人として
- 普通はこう
- みんな通ってきた道
- 期待しているから
- プロなら耐えろ
- 作品のため
- 現場では普通
- チャンスを失うよ
- これくらいできないと通用しない
- 悪気はない
- 気にしすぎ
- あの人はそういう人だから
これらの言葉がすべて悪いわけではない。
しかし、これらの言葉によって、人格否定、暴力、性的接触、過剰な叱責、無理な要求、境界線侵害が正当化されているなら危ない。
観察すべきポイント
- 具体的な改善方法があるか
- 人格否定になっていないか
- 反論や相談が許されるか
- 拒否や撤退ができるか
- 周囲が検証できるか
- 権力差を利用していないか
- 相手の身体・尊厳・境界線を侵害していないか
- 同じことが繰り返されていないか
- 被害者だけが自責していないか
- 周囲が傍観していないか
12. 自分が被害者かもしれない時の確認
自分が被害者かもしれない時、すぐに結論を出せなくてもいい。
まずは、次のように整理する。
1. 事実を書く
誰が、いつ、どこで、何を言ったか。
何をされたか。
誰が見ていたか。
どんな影響が出たか。
2. 感情を書く
怖かった。
恥ずかしかった。
悔しかった。
気持ち悪かった。
逃げたかった。
混乱した。
自分が悪いと思った。
3. 相手の言い分を書く
あなたのため。
指導。
作品のため。
成長のため。
冗談。
悪気はない。
4. 境界線を書く
自分は何が嫌だったのか。
どこからが無理だったのか。
何をされたくなかったのか。
何を拒否したかったのか。
5. 第三者に見せる
信頼できる人、相談窓口、専門家、支援団体などに見せる。
自分の中だけで判断しない。
ハラスメント構造にいる時、人は自分を疑いやすい。
だから、外部の目が必要になる。
13. 周囲にできること
傍観者側にもできることがある。
大きな告発や対決だけが支援ではない。
できること
- 「今の大丈夫?」と声をかける
- 「私は見ていた」と伝える
- 被害者の感覚を否定しない
- 「気にしすぎ」と言わない
- 記録を手伝う
- 相談窓口を一緒に探す
- 加害を冗談として笑わない
- 明らかな暴力・性的接触は止める
- 上位者や組織に報告する
- 被害者を孤立させない
被害者にとって、「見ていた」「あなたが悪いとは思わない」と言ってくれる人がいるだけで、かなり違う。
ハラスメントは、孤立で強くなる。
だから、周囲が被害者の現実感を支えることは重要である。
14. 組織がやるべきこと
組織がやるべきことは、個人の善意に頼ることではない。
仕組みとして対応することである。
必要な対応
- ハラスメント禁止方針の明確化
- 相談窓口の整備
- 相談者への不利益取扱い禁止
- 事実確認
- 被害者保護
- 行為者への適正な対応
- 再発防止
- 第三者相談先の確保
- フリーランスや外部者も含めた相談導線
- 傍観者への教育
- 「指導」と「ハラスメント」の区別の明文化
厚生労働省も、職場のハラスメント防止対策として、事業主に対し、方針の明確化、相談体制の整備、事実確認、被害者・行為者への適正な対応、再発防止、不利益取扱いの禁止などを求めている。
つまり、ハラスメントは「本人が耐えるかどうか」の問題ではない。
組織設計の問題である。
15. この記事の結論
ハラスメントは、分かりやすい暴力だけではない。
「あなたのため」
「指導」
「成長」
「作品のため」
「社会人として」
こうした言葉で包まれることで、被害は見えにくくなる。
被害者は自分を疑う。
周囲が止めないことで、自責はさらに深まる。
そして組織が曖昧にすると、ハラスメントは現場の常識になる。
表現の現場調査団の調査が示しているのは、単に一部の加害者がいるという話ではない。
被害を被害と認識しにくくする構造。
複数の要因が重なって深刻化する構造。
周囲の傍観が二次被害になる構造。
フリーランスや弱い立場の人が逃げにくい構造。
これらである。
そして、この構造は表現の現場だけではない。
会社にもある。
学校にもある。
研究室にもある。
部活にもある。
家族にもある。
だから、必要なのは、個人の我慢ではない。
ラベルを貼ること。
記録すること。
外部の目を入れること。
周囲が傍観しないこと。
組織が仕組みで対応すること。
そして何より、
「あなたのため」と言われても、自分の境界線を疑わなくていい
という認識である。
あなたのためロンダリングに、魂を渡さない。
指導ラベル付き加害を、指導として飲み込まない。
傍観者込みの穴あき現場に、自分の自責を捧げない。
これは、被害者が悪い話ではない。
構造の話である。
短縮版:要点まとめ
何が問題か
ハラスメントは、加害者が「あなたのため」「指導」「成長」「作品のため」と言うことで見えにくくなる。
被害者は、
自分が悪いのかも
指導なのかも
耐えられない自分が弱いのかも
と自責化しやすい。
数字の重さ
2021年調査では、1449人から回答があり、1195人が何らかのハラスメント被害経験を回答したと報道されている。
そのうち「身体を触られた」503人、「望まない性行為を強要された」129人。
129人は全回答者の約8.9%、被害経験者の約10.8%。
調査方法上、表現の現場全体の発生率として単純一般化はできない。
それでも、これだけの人が「望まない性行為を強要された」と答えている事実は重大。
構造
- 加害者が善意や指導を装う
- 被害者が自責する
- 周囲が傍観する
- 組織が曖昧にする
- 被害が現場の常識になる
ラベル
- あなたのためロンダリング
- 善意偽装ハラスメント
- 指導ラベル付き加害
- 作品のためハラスメント
- 傍観者込みの穴あき現場
チェックリスト:善意偽装ハラスメント
危険な言葉
- あなたのためを思って
- 成長してほしいから
- 指導だから
- 社会人として
- 普通はこう
- みんな通ってきた道
- 期待しているから
- プロなら耐えろ
- 作品のため
- 現場では普通
- チャンスを失うよ
- 悪気はない
- 気にしすぎ
- あの人はそういう人だから
危険な状態
- 人格否定がある
- 身体接触がある
- 性的な要求がある
- 拒否しにくい
- 相談しにくい
- 断ると不利益がありそう
- 周囲が見ているのに止めない
- 自分だけが悪いと思ってしまう
- 同じことが繰り返される
- 逃げ道がない
