導入
昔からたまに聞く話がある。
蚊は最後まで血を吸わせると、最後に自分の唾液まで吸っていく。だから痒くならない。
一見、理屈がありそうに見える。
蚊のかゆみは唾液が原因。
最後まで吸わせる。
唾液も吸い戻す。
だから痒くない。
しかし、実際にはかなり怪しい。
結論から言うと、一部それっぽい要素はあるが、「最後まで吸わせれば痒くならない」は信じない方がいい。
なぜなら、蚊は刺し始め・血管を探る段階ですでに唾液を入れているし、その唾液は皮膚側にも残るからだ。
蚊のかゆみは「血を抜かれた痛み」ではない
まず、蚊に刺されてかゆくなるのは、血を抜かれたからではない。
主な原因は、蚊の唾液に対する体の反応である。
蚊は血を吸うとき、血が固まりにくくなるように唾液を注入する。CDCは、蚊が吸血中に唾液を皮膚へ入れ、体がその唾液に反応して腫れやかゆみが出ると説明している。[^cdc-myth]
つまり流れはこうだ。
- 蚊が皮膚に刺す
- 血管を探る
- 唾液を入れる
- 体が異物として反応する
- ヒスタミンなどが出る
- 赤くなる、腫れる、かゆくなる
かゆみの本体は「蚊の唾液そのもの」だけではなく、「蚊の唾液に対して自分の免疫が起こした反応」でもある。
蚊はきっかけを入れる。
体くんが警報を鳴らす。
その警報がかゆい。
刺し始めでもう唾液は入っている
「最後まで吸わせれば大丈夫」説の弱いところは、刺し始めの段階を軽く見ている点だ。
蚊は血を吸い始めてから最後に唾液を出すのではない。
血管を探している段階、つまり probing の段階で、すでに唾液を皮膚に入れる。研究でも、蚊は宿主の皮膚内で血を探る過程で唾液を注入すると説明されている。[^probing-myth]
つまり、蚊が満腹になったかどうかに関係なく、刺された時点で唾液は入っている。
この時点で、かゆみのスイッチは押されている可能性がある。
「唾液を吸い戻す」は一部ありえるが、全部回収ではない
では、「蚊が唾液を吸い戻す」という部分は完全な嘘なのか。
ここは少しややこしい。
研究では、蚊の唾液タンパク質の一部が吸血中に再び蚊の血液食へ入る、つまり蚊側に戻ること自体は示されている。[^reingested]
だから、民間説の芯に「それっぽい科学要素」がゼロとは言えない。
ただし、そこから「だから痒くならない」までは飛びすぎである。
蚊が出した唾液成分の一部が血と一緒に戻ることがあっても、皮膚側の唾液が完全にゼロになるわけではない。
実際、蚊に刺された皮膚では、唾液の沈着が刺咬後もしばらく観察される。PLOS ONEに掲載された研究では、蚊に刺されたマウスの皮膚で、唾液沈着が刺咬後18時間まで観察されたと報告されている。[^saliva-deposit]
つまり、蚊は唾液を全部きれいに回収して帰る清掃業者ではない。
かなり置いていく。
最後まで吸わせても普通に痒くなる理由
最後まで吸わせても痒くなる理由は、整理するとこうだ。
- 刺し始めにすでに唾液が入る
- 血管探しの段階でも唾液が入る
- 唾液の一部が戻るとしても、全部は戻らない
- 皮膚側に残った唾液成分に免疫が反応する
- ヒスタミンなどが出て、神経がかゆみ信号を出す
だから、最後まで吸わせるかどうかは、かゆみを消す決定打にはならない。
むしろ、
完全に血を吸われたうえに、普通に痒い
になりやすい。
最悪である。
「途中で払うと複数ヶ所刺される」はありえる
ただし、民間説が生まれた理由も少し分かる。
蚊を途中で追い払うと、満腹になっていない蚊が別の場所を刺し直すことはありえる。
すると、
- 1ヶ所目:少し刺される
- 2ヶ所目:また刺される
- 3ヶ所目:さらに刺される
という感じで、かゆみポイントが増える。
この体験から、
途中で払うから何ヶ所も刺される。最後まで吸わせた方がマシなのでは?
という話になった可能性はある。
しかし、それは「かゆくならない」とは別問題である。
最後まで吸わせれば刺し直しは減るかもしれない。
でも、刺された場所が痒くならないとは限らない。
むしろ普通に痒い。
病原体リスクを考えると、吸わせきるメリットはない
蚊は単にかゆいだけの虫ではない。
世界的には、蚊は感染症を媒介する重要な存在でもある。日本の日常生活では地域や状況によってリスクは違うが、少なくとも「わざわざ吸わせる」のは合理的ではない。
CDCの案内も、蚊刺されの対処は「刺されないこと」「刺されたら洗う・冷やす・かゆみ止めを使う」という方向であり、吸わせきることを勧めるものではない。[^cdc-myth]
民間療法として試したくなる気持ちは分かる。
でも、蚊に関しては、
- 吸わせない
- 刺されない
- 部屋に入れない
- 見つけたら駆除する
- 刺されたら冷やす、洗う、薬を使う
が現実的である。
「セロハンテープ」「熱湯」系の話も注意
蚊刺されには、いろいろな民間療法がある。
- セロハンテープを貼る
- 熱湯を当てる
- 爪でバッテンをつける
- 叩く
- 掻きまくる
このうち、冷却や一部の温熱刺激は、神経の感じ方を変えて一時的にかゆみを紛らわせることはある。
ただし、熱湯は火傷のリスクがある。特に「50℃くらいを直接」みたいなやり方は、皮膚を傷める可能性があるのでおすすめしにくい。
Mayo Clinicは、蚊刺されのかゆみ対策として、カラミンローション、市販のヒドロコルチゾンクリーム、冷湿布などを挙げている。[^mayo-myth]
CDCも、洗う、氷で冷やす、市販のかゆみ止めや抗ヒスタミンクリームを使う、といった対処を案内している。[^cdc-myth]
つまり、変な実験より、普通に洗って冷やして薬を使った方がいい。
まとめ
「蚊は最後まで吸わせたら痒くない」は、かなり怪しい。
正しく整理すると、こうなる。
- 蚊のかゆみは唾液への体の反応
- 蚊は刺し始め・血管探しの段階で唾液を入れる
- 唾液成分の一部が蚊側へ戻ることはありえる
- でも皮膚側にも唾液は残る
- だから最後まで吸わせても普通に痒くなる
- 吸わせきるメリットより、刺されるデメリットの方が大きい
民間説としては面白い。
理屈のかけらも少しある。
でも、実践としては信用しない方がいい。
蚊は血を吸う。
唾液を置いていく。
体くんが怒る。
かゆい。
全部乗せである。
参考資料(1件)
[^cdc-myth]: CDC “About Mosquito Bites” [^probing-myth]: Martin-Martin et al. “Determination of Mosquito Probing and Feeding Time to Investigate the Effect of Host Blood on Aedes aegypti” [^reingested]: Martin-Martin et al. “Aedes aegypti D7 long salivary proteins modulate blood ingestion and digestion” [^saliva-deposit]: Choumet et al. “Visualizing Non Infectious and Infectious Anopheles gambiae Blood Feedings in Naive and Saliva-Immunized Mice” [^mayo-myth]: Mayo Clinic “Mosquito bites - Diagnosis and treatment”
