結論:保全は熟練者の勘だけで引き継いではいけない
機械保全では、経験が重要である。
音の違い。
振動の違い。
におい。
温度。
部品の摩耗。
設備ごとの癖。
分解したときにしか分からない状態。
こうした知識は、文章だけですべて伝えられない。
だから現場では、「先輩の背中を見て覚える」「一緒にやりながら覚える」という教育が残りやすい。
しかし、保全作業は失敗時の被害が大きい。
通常運転時には閉じているガードを開ける。
停止している設備の内部へ入る。
詰まりを取り除く。
回転部へ近づく。
電気、空圧、油圧、重力、ばね、熱、残圧を扱う。
試運転のため一時的に動かす。
つまり保全は、安全装置の外側へ出やすい仕事である。
この仕事を口伝と経験だけにすると、新人は「何を見落とすと死ぬのか」を知らないまま、熟練者の動作をまねることになる。
保全に必要なのは、背中を見る機会と、背中を見なくても最低限安全にできる標準の両方である。
保全中の死亡事故は「誰かが起動した」で起きる
厚生労働省の労災事例には、搬送機の点検中、別の作業者が設備を起動し、点検者が設備と建屋の間に挟まれて死亡した事例がある。
操作者は周囲へ声を掛けていた。
しかし距離があり、点検者には届かなかったと考えられている。
点検作業の手順書はなく、安全教育も実施されていなかった。
これは単純な「声掛け不足」ではない。
点検者が危険域にいる
↓
別の人が起動できる
↓
伝達手段が声だけ
↓
起動前に全員の退避を物理的に確認しない
というシステムの問題である。
声掛けは補助にはなる。
しかし、声が届かなければ起動できる設備では、声掛けが最後の防壁になってしまう。
米国では、この問題を hazardous energy、危険エネルギーの管理として扱い、Lockout/Tagout、ロックアウト・タグアウトが制度化されている。
日本でも名称を使う企業は増えているが、重要なのは英語の呼称ではない。
点検者自身がエネルギーを遮断し、自分の管理する鍵が外れない限り設備を再起動できない状態を作ることが本質である。
「停止ボタンを押す」だけでは、エネルギー遮断ではない
設備を止める方法には段階がある。
停止ボタンを押す
主電源を切る
ブレーカーを遮断する
遮断器へ施錠する
空圧・油圧を遮断する
残圧を抜く
重力で落下する部分をブロックする
回転が完全に止まったことを確認する
試し起動で無エネルギーを確認する
最初の「停止ボタン」は、制御回路へ停止命令を出しているだけの場合がある。
故障、誤操作、制御異常、他者の操作で再起動する可能性が残る。
油圧や空圧の残圧が残っていることもある。
高い位置の部品は、電気がなくても重力で落ちる。
ばねやフライホイールは、蓄えたエネルギーを持つ。
したがって、保全手順には、電源だけでなく設備に存在するすべてのエネルギー源を記載する必要がある。
- 電気
- 機械的回転
- 重力
- 油圧
- 空圧
- 蒸気
- 熱
- 化学物質
- ばね
- 真空
- 蓄電
- 残圧
- 周辺設備から流入する材料
「電源を切ったから大丈夫」は、設備によっては成立しない。
標準化すべきなのは、通常運転より異常時である
手順書は通常運転だけ書かれがちである。
電源を入れる。
材料を投入する。
設定値を入力する。
運転を開始する。
品質を確認する。
しかし重大事故が起きやすいのは、通常状態から外れたときである。
- 材料が詰まった
- センサーが反応しない
- 製品が斜めになった
- ロールへ材料が付着した
- コンベヤーが停止した
- 異音がした
- 一部だけ動かしたい
- ガードを開けて確認したい
- 清掃したい
- 部品を交換したい
- 試運転したい
- 復旧後に再起動したい
このとき、現場は生産を早く戻したい。
その圧力が、「少しだけなら」「低速だから」「先輩もやっていた」「止めると時間がかかる」という近道行動を生む。
したがって、安全な標準書には、異常時の判断を具体的に書く必要がある。
どの状態で即停止するか
誰へ連絡するか
誰が作業許可を出すか
どのエネルギーを遮断するか
どこへ鍵を掛けるか
誰が危険域へ入れるか
試運転時に誰がどこへ退避するか
復旧を誰が承認するか
「異常時は上司へ報告」とだけ書いても足りない。
上司が不在のときにどうするか。
夜勤や休日は誰が判断するか。
応急処置を許可する範囲はどこまでか。
復旧を諦めて停止を継続する基準は何か。
そこまで決めて初めて、現場は生産圧力に抵抗できる。
機械別の保全手順に最低限必要な項目
保全手順は、一般論だけでは使えない。
設備ごと、またはエネルギー構成が同じ設備群ごとに、具体化する必要がある。
1. 設備を一意に識別する情報
- 設備名
- 設備番号
- 設置場所
- 写真
- 対象ユニット
- 同型設備との違い
- 制御盤、遮断器、バルブの場所
「いつもの機械」「奥のライン」では、応援者や新人が判断できない。
2. 作業の目的と適用範囲
- 定期点検
- 清掃
- 調整
- 詰まり除去
- 部品交換
- 故障診断
- 試運転
- 大規模修理
同じ設備でも、作業によって必要な遮断範囲は変わる。
3. 危険エネルギーの一覧
- エネルギーの種類
- 大きさ
- 流入元
- 遮断箇所
- 蓄積箇所
- 解放方法
- ブロック方法
写真や図面で示すことが望ましい。
4. 停止前の準備
- 関係者への連絡
- 生産物の処理
- 周辺設備との連携
- 作業範囲の立入規制
- 必要工具、鍵、タグ、ブロックの準備
- 作業人数
- 責任者
- 外部業者との役割分担
5. 停止・隔離・施錠の順序
- 通常停止
- 主エネルギー遮断
- 個人ロックの装着
- タグ表示
- 残圧解放
- 可動部固定
- 落下防止
- 温度低下待ち
- 材料流入停止
順序を曖昧にしない。
6. ゼロエネルギーの確認
遮断したつもりではなく、遮断できたことを確認する。
- 計器表示
- 圧力計
- 電圧確認
- 試し起動
- 可動部の固定確認
- バルブ位置
- 残留温度
- 周辺設備からの流入なし
試し起動後は、操作スイッチを停止位置へ戻す。
7. 作業中の禁止事項
- 他人の鍵を外す
- 操作盤だけを切って内部へ入る
- センサーをテープ等で無効化する
- ガードを外したまま通常運転する
- 単独で危険域へ入る
- 回転中に清掃する
- 手袋や布を回転体へ近づける
- 無許可で試運転する
8. 試運転の手順
保全では、完全停止状態だけで診断できない場合がある。
その場合、「動かしながら見る」を無制限に許してはいけない。
- 試運転が必要な理由
- 低速・寸動・ホールド・トゥ・ランの使用
- 使用する操作場所
- 退避位置
- 監視者
- 合図方法
- 立入禁止範囲
- 異常時の停止方法
- 通常速度へ戻す条件
を定める。
9. 復旧と引渡し
- 工具、部品、仮設物の撤去
- ガード、安全装置の復旧
- 作業者全員の退避確認
- 個人ロックの解除
- 関係者への通知
- 無負荷試運転
- 負荷試運転
- 異常の有無
- 生産担当者への引渡し
- 記録
- 未解決事項
作業完了と、設備を安全に生産へ返せることは別である。
手順書は「作って置く」だけでは機能しない
標準化は、PDFを共有フォルダへ置くことではない。
現場で使える手順には、次の管理が必要である。
- 正式版が一つに決まっている
- 古い版が現場に残っていない
- 変更理由が記録されている
- 設備変更時に手順も更新される
- 事故・ヒヤリハット後に見直す
- 写真と現物が一致している
- 作業者が実際に手順どおり実施できる
- 教育後に技能を確認する
- 定期的に監査する
- 現場が改善提案できる
- 外国人、派遣、請負にも理解できる言語と表現を用意する
米国OSHAのロックアウト・タグアウト規則では、危険エネルギー管理プログラムを、手順、訓練、定期点検で構成する。
手順には、目的、適用、責任、遮断・固定・施錠の具体的な順序、ロックの取り付け・解除・移管、遮断の有効性を検証する方法などが求められる。
NIOSHも、書面化された手順、訓練、監査、設備がロックアウトを受け入れられる設計であることを、主要な要素として挙げている。
つまり、標準化は文書作成で終わらない。
文書
+
実機での訓練
+
技能確認
+
定期監査
+
設備変更時の改訂
まで含む。
「背中を見て覚える」は補助教育であり、標準の代わりではない
熟練者の実演には価値がある。
工具の持ち方。
力の加減。
異常音。
部品を傷めない順序。
現物を見ないと理解しにくい判断。
だから実地教育をなくす必要はない。
問題は、実地教育だけで終えることである。
標準書で危険源と必須手順を理解する
↓
熟練者の実演を見る
↓
質問する
↓
監督下で実施する
↓
技能確認を受ける
↓
単独作業を許可する
↓
定期的に再確認する
この順番なら、背中を見る教育は有効になる。
標準がない状態では、新人は先輩の安全な工夫と、昔から続く危険な近道を区別できない。
熟練者が危険を回避できていても、その理由を言語化しなければ、新人は表面動作だけをコピーする。
同世代の作業者が「ワンチャン死ぬ」仕事を、運で回してはいけない
重大事故の統計を読むと、被災者は数字になる。
死亡1人。
休業1人。
切断。
挟まれ。
巻き込まれ。
しかし現場では、その人は誰かの同僚である。
同じ時期に入社した人。
休憩中に話していた人。
家へ帰れば家族や友人がいる人。
まだ仕事を覚えている途中の人。
体調が悪くても出勤した人。
危険な作業を見て嫌だと思うのは、臆病だからではない。
「製品を作るために、人が一定確率で欠損や死亡を引き受ける構造を許したくない」という感覚である。
会社が「安全第一」と掲げるなら、まず同世代の誰かが、経験不足や一瞬の不調だけで死なない工程を作るべきである。
標準化は新人を縛るためではなく、新人を死なせないためにある
標準化は、現場を細かく管理するためのものだと思われることがある。
しかし安全分野では、標準化の役割は違う。
- 絶対に省略してはいけない手順を共有する
- 判断してよい範囲と、止めるべき範囲を分ける
- 誰が作業しても最低限の安全を確保する
- ベテランだけが知る危険を組織の知識へ変える
- 設備変更や事故の学びを次の人へ残す
- 「知らなかった」を個人の責任にしない
良い標準は、考えることを禁止しない。
通常条件を固定し、異常を見えるようにし、異常時に勝手な判断をしなくて済むようにする。
保全では特に、
どこまで自分で判断してよいか
どの状態なら必ず停止するか
誰の許可がなければ再起動できないか
を明確にする必要がある。
最も安全な手順書は、危険作業を不要にする設備改善へつながる
手順書を作る過程で、何十段階もの注意事項が必要になることがある。
そのときは、「詳しい手順書ができた」で終えないほうがよい。
手順が複雑すぎるのは、設備設計が人へ危険回避を押し付けている可能性がある。
毎回ガードを外す
複数箇所を手で押さえる
狭い場所へ入る
他者と声を掛け合う
決まった秒数で退避する
工具を動く部分へ差し込む
このような作業は、治具化、自動化、遠隔化、ガード変更、アクセス改善、設備更新を検討する対象である。
手順書は、人間を機械へ合わせ続けるためではない。
危険な設計を発見し、設備を人間に合わせ直すための資料でもある。
