導入:呪術高専、名前は学校だけど中身がだいぶおかしい
『呪術廻戦』の呪術高専は、表向きには学校である。
先生がいる。
生徒がいる。
同期がいる。
制服がある。
授業がある。
青春っぽい空気もある。
ただ、冷静に見るとかなりおかしい。
高専生たちは、普通に任務へ出される。
呪霊と戦う。
失敗すれば死ぬ。
想定より強い敵に当たることもある。
仲間が死んでも、また次の任務が来る。
危険すぎる存在になれば、上層部から処分対象にされる。
これ、学校というより、 術師版の戦場管理装置である。
もっと雑に言えば、 術師マラソンゲームである。
入学する。
走らされる。
任務に出る。
呪霊を祓う。
仲間が死ぬ。
また走らされる。
強ければさらに前線へ送られる。
弱ければ死ぬ。
危険なら殺される。
それでもシステムは止まらない。
これが呪術高専のクソ寒さだと思う。
呪術高専は「教育機関」だけではない
普通の学校なら、基本構造はこうだ。
学ぶ。
練習する。
実習する。
成長する。
卒業後に現場へ出る。
しかし呪術高専は、かなり違う。
学ぶ。
任務へ出る。
死にかける。
また学ぶ。
また任務へ出る。
仲間が死ぬ。
さらに強い任務へ出る。
戦争みたいな状況に巻き込まれる。
つまり、教育と現場投入がほぼ同時に起きている。
これは学校というより、職業訓練と実戦配備が一体化した場所である。
しかも対象は未成年である。
虎杖、伏黒、釘崎は高校生。
五条、夏油、七海、灰原の時代も学生である。
それなのに、やっていることは戦場に近い。
ここが怖い。
呪術高専は、若い術師を育てる場所であると同時に、 若い術師を任務へ流すための人材プールでもある。
「才能があるから守られる」ではなく「才能があるから使われる」
バトル漫画では、才能があることは基本的にポジティブに描かれやすい。
強い術式がある。
呪力量が多い。
特殊な体質がある。
名家の血を引いている。
普通なら、それは主人公的な強みである。
しかし『呪術廻戦』では、才能はかなり危険なものでもある。
才能があるから守られるのではない。
才能があるから、現場に出される。
才能があるから、家に所有される。
才能があるから、危険人物として処分対象になる。
才能があるから、逃げにくくなる。
これはかなりクソ寒い。
伏黒恵は十種影法術を持っているから、禪院家からすれば価値ある存在になる。
虎杖悠仁は宿儺の器だから、死刑対象になる。
乙骨憂太は強すぎる呪いを抱えた危険存在として扱われる。
夜蛾正道は危険な技術を持つ存在として処分される。
つまり呪術界では、
力があることは自由ではなく、管理対象になること
でもある。
ここが普通の少年漫画的な「才能があってよかったね」と違う。
呪術界では、才能は祝福であると同時に、呪いである。
呪術高専は「保護」と「管理」と「動員」が混ざっている
呪術高専のややこしさは、完全な悪の組織ではないところだ。
たしかに、呪術高専には保護の役割がある。
呪霊が見える子ども。
術式を持つ子ども。
普通の社会では生きづらい人間。
そういう人たちを集めて、教育する。
力の使い方を教える。
呪術界のルールを教える。
仲間を作る。
これは必要なことでもある。
術師の素質がある人間を野放しにすれば、本人も危ないし、周囲も危ない。
呪詛師になる可能性もある。
だから、高専が保護・教育・監視をすること自体には意味がある。
問題は、その先である。
保護した人材を、そのまま任務に出す。
教育中の若者を戦場に投入する。
等級で管理し、現場へ流す。
危険が起きれば、本人を守るより先に処分を考える。
ここで、保護と管理と動員が混ざる。
つまり呪術高専は、
保護施設
でもあり、
教育機関
でもあり、
戦場労働力の管理装置
でもある。
この混ざり方が気持ち悪い。
術師マラソンゲームとは何か
呪術高専のクソさを一言で言うなら、 術師マラソンゲームである。
これは、術師が終わらない任務の中を走らされ続ける構造のことだ。
呪霊が出る。
術師が祓う。
また呪霊が出る。
また術師が祓う。
人手が足りない。
若い術師も出る。
強い術師にはより重い任務が来る。
仲間が死ぬ。
それでも呪霊は減らない。
また任務が来る。
走っても走っても終わらない。
休んでも次が来る。
誰かが壊れても、システムは止まらない。
これが術師マラソンゲームである。
しかも、普通のマラソンと違って、リタイアの代償が重すぎる。
走れなければ死ぬ。
逃げれば呪詛師扱いになる可能性がある。
強すぎれば危険物として見られる。
弱ければ任務で消える。
つまり、
走り続けても地獄。 走れなくても地獄。 強すぎても管理対象。 弱すぎても死ぬ。
この構造が本当に寒い。
灰原雄の死は「術師マラソンゲーム」の象徴
灰原雄の死は、この構造をかなり分かりやすく見せている。
灰原は明るい後輩だった。
呪術師側の善性や希望を感じさせる人物だった。
しかし、七海との任務で死亡する。
本来は2級想定の任務だったはずが、実際には1級相当の案件だった。
任務の見積もりが狂っていた。
その結果、七海は生還したが、灰原は死んだ。
これはかなり重要である。
灰原は、本人の性格が悪かったから死んだわけではない。
努力不足で死んだわけでもない。
任務をサボったわけでもない。
むしろ、ちゃんと任務に行った。
その結果、想定ミスの中で死んだ。
これが呪術高専システムの怖さである。
学校に通っているはずの後輩が、任務の見積もりミスで死ぬ。
そして、残された七海と夏油がその意味を背負う。
システムの穴で若者が死に、残った人間の心が壊れる。
でも、呪術界は止まらない。
灰原の死は、術師マラソンゲームの犠牲者そのものだと思う。
夏油が壊れるのも自然に見える
この構造で見ると、夏油傑が壊れていくのもかなり自然に見える。
夏油はもともと真面目だった。
呪術師は非術師を守るためにある、という考えを持っていた。
でも、現実はかなりきつい。
理子を救えない。
盤星教の人間たちは理子の死を拍手で喜ぶ。
五条は最強になり、一人で任務をこなせるようになる。
夏油は一人で呪霊を祓い、取り込み続ける。
灰原が死ぬ。
七海が疲弊する。
呪霊は非術師から生まれ続ける。
その呪霊を術師が命懸けで処理し続ける。
ここで夏油が思う。
「誰のために?」
これはかなり自然な問いである。
もちろん、夏油の結論は最悪である。
非術師を排除するという思想は間違っている。
ただ、夏油がその方向へ傾いていく背景には、術師マラソンゲームの異常さがある。
夏油は、ただ急に悪くなったわけではない。
走らされ続ける側が、走らせる構造そのものを憎み始めた
と見ると分かりやすい。
七海が一度辞めるのも自然
七海建人が一度呪術界を離れるのも、この文脈だとかなり納得できる。
七海は現実的な人間である。
感情だけで突っ走るタイプではない。
呪術師の仕事がどれだけ割に合わないかを理解している。
学生時代に灰原を失っている。
自分だけが生き残った記憶もある。
そのうえで、呪術界に居続けることの異常さを分かっている。
だから一度、一般企業へ行く。
これもまた地獄ではあるが、少なくとも呪術師のように毎日命を削る仕事ではない。
七海が呪術界に戻るのは、会社員生活が美しかったからではない。
どちらもクソである。
でも、七海は最終的に、より自分が納得できるクソを選んだ。
ここが七海らしい。
術師マラソンゲームから一度降りた人間だからこそ、七海の言葉は重い。
彼は、走り続けることの異常さを知っている。
それでも戻った人間である。
上層部は「育てる」より「処分する」が早い
呪術界のさらに寒いところは、何かあった時にかなりすぐ処分へ向かうことだ。
虎杖は宿儺の器として死刑対象になる。
渋谷事変後には死刑執行猶予が取り消され、乙骨が死刑執行役として現れる。
夜蛾も、危険な技術を持つ存在として処分される。
乙骨も、過去には里香の危険性ゆえに処刑対象として扱われていた。
つまり、呪術界は人材を育てるが、人材を守るとは限らない。
役に立つ間は使う。
危険になれば切る。
制御できなければ殺す。
この構造がある。
呪術高専は教育機関の顔をしているが、その上には処分権限を持つ呪術界の上層部がいる。
だから、生徒たちは完全には守られていない。
むしろ、登録された時点で管理対象になる。
ここが本当にグロい。
君には才能がある。だから育てます。
ではなく、
君には才能がある。だから管理します。使います。危険なら殺します。
に近い。
死滅回游は「術師マラソンゲーム」の極端な可視化
死滅回游は、呪術界のこの構造をさらに極端に可視化したものだと思う。
死滅回游では、参加者にルールが課される。
点がつく。
殺せば点が入る。
一定期間点の変動がなければ術式を剥奪される。
プレイヤーとして管理される。
これはもう、かなり露骨なゲーム化である。
命に点数をつける。
術師や非術師をルール上の存在として扱う。
戦うこと、殺すこと、参加することをシステムに組み込む。
もちろん、死滅回游は羂索が作った極端な仕組みであり、呪術高専そのものではない。
ただ、見方を変えると、死滅回游は呪術界の本質をかなりグロく拡大したものでもある。
人間をルールで管理する。
能力者を戦場へ置く。
生存と点数を結びつける。
個人の事情より、システムの進行が優先される。
これ、術師マラソンゲームの最終形に近い。
呪術高専ではまだ「学校」という顔があった。
死滅回游では、その顔すら剥がれる。
「学校の青春」と「戦場労働」が同時にあるから気持ち悪い
呪術高専の面白さは、青春が本当にあるところだ。
虎杖、伏黒、釘崎のやり取りは楽しい。
五条と夏油と硝子の学生時代にも、確かに青春がある。
先輩後輩の関係もある。
友人関係もある。
バカみたいな会話もある。
だからこそ、きつい。
もし最初から完全な軍隊として描かれていたら、まだ分かりやすい。
でも呪術高専は、学校の顔をしている。
青春の顔をしている。
その中に、戦場労働が混ざっている。
この落差がクソ寒い。
楽しく食事していた生徒が、次の任務で死ぬかもしれない。
同期と笑っていた生徒が、翌週には特級案件に巻き込まれるかもしれない。
先生がいるのに、上層部は生徒を殺そうとしてくる。
学校に見えるのに、実態は人材管理と戦場投入である。
この二重構造が『呪術廻戦』の気持ち悪さであり、うまさでもある。
五条の「強くなれ」は、このクソ環境への現実的な答え
この構造を踏まえると、五条が恵に言った 「強くなってよ。僕に置いていかれないくらい」 の重さがさらに分かる。
普通なら、子どもには「守ってあげる」と言えばいい。
でも呪術界では、それでは足りない。
禪院家に行けば所有される。
高専に入れば任務に出る。
弱ければ死ぬ。
危険なら処分される。
強ければさらに重いものを背負わされる。
この環境で生き残るには、強くなるしかない。
だから五条の言葉は、優しさであり、呪いである。
守りたいから、強くなってほしい。
自分一人が最強でも、大切な人を救えなかった。
だから次の世代には、自分に置いていかれないくらい強くなってほしい。
これは、術師マラソンゲームの中で、五条が出したかなり現実的な答えである。
システムそのものをすぐには変えられない。
なら、走らされる側を強くする。
同時に、いつかシステムを変える側も育てる。
五条の教育方針は、ここにある。
呪術高専システムのクソさは、現実のブラック労働にも似ている
この構造は、現実のブラック労働にも少し似ている。
若い人を「成長」の名目で現場へ出す。
できる人ほど仕事が増える。
弱音を吐くと自己責任にされる。
人手不足なのに、仕組みは変えない。
誰かが壊れても、別の人で穴埋めする。
危険や負荷を個人の努力で吸収させる。
これに近いものが、呪術高専にもある。
もちろん、呪術高専の場合は相手が呪霊なので、現実の労働とは単純に同じではない。
世界を守る必要がある。
誰かが戦わなければならない。
それは分かる。
ただ、それでも若者を走らせ続ける構造は異常である。
必要だからといって、構造のクソさが消えるわけではない。
「誰かがやるしかない」
という言葉で、現場の犠牲が正当化される。
これが一番寒い。
呪術廻戦がうまいのは、システムの気持ち悪さを消さないところ
『呪術廻戦』がうまいのは、呪術高専を単なるかっこいい学校として描かないところだ。
たしかに、五条はかっこいい。
生徒たちも魅力的である。
戦闘も面白い。
でも、その裏にずっと気持ち悪いシステムがある。
若い術師が任務に出される。
危険人物は処分される。
名家は人間を術式で査定する。
上層部は保身的で冷たい。
呪霊は生まれ続ける。
術師は走り続ける。
この気持ち悪さが消えない。
だから、夏油の闇落ちも、七海の離脱も、五条の教育方針も、恵の重さも、全部つながる。
キャラの悲劇だけではない。
システムの悲劇でもある。
ここが『呪術廻戦』の強さだと思う。
まとめ:呪術高専は「青春の顔をした術師マラソンゲーム」
呪術高専は、学校である。
でも、それだけではない。
術師を保護する場所。
術師を教育する場所。
術師を管理する場所。
術師を任務に出す場所。
危険なら処分対象にするシステムの一部。
つまり、 青春の顔をした術師マラソンゲーム である。
入学する。
任務に出る。
死にかける。
仲間が死ぬ。
また任務に出る。
強ければもっと走らされる。
弱ければ死ぬ。
危険なら殺される。
それでも呪霊は生まれ続ける。
この終わらない構造が、呪術高専システムのクソさである。
そして、このクソさがあるからこそ、キャラクターたちの言葉が重くなる。
夏油の「誰のために?」が重くなる。
七海の疲労が重くなる。
灰原の死が重くなる。
五条の「強くなってよ。僕に置いていかれないくらい」が重くなる。
呪術高専は、楽しい学校では終わらない。
学校の皮をかぶった戦場であり、若い術師を走らせ続ける管理装置である。
だからこそ、『呪術廻戦』はただの能力バトルではなく、 若者を戦場に送り続けるシステムの話としても読める。
そこが本当にうまい。
そして、かなりクソ寒い。